1・春風-2

ウィルベルグ城の医務室は一階、中央にある大食堂を左に曲がった所に位置している。
扉を開けると、その正面に机。部屋はそれなりに奥行きがあり、ベッドがいくつか並んでいるのが見える。
窓が開かれると白いカーテンが風に靡いた。
主が不在であったそこは長らく薬品や医療器具の単なる保管庫となっていたものの、掃除や手入れは行き届いている。
医師が街から呼ばれた時の拠点や、怪我をした者が自分で応急処置を施す場として用いられていたので。
右が翡翠、左が琥珀のオッドアイという特徴を持つ王直属の女性騎士、ジェイド・アンティゼノは部屋の新たな主にそう説明した。
彼女はその目だけではなく人目を引く容姿をしていた。
肩よりも少し長い髪も翡翠色。女性にしては長身で、騎士の軽鎧を身につけ、凛とした空気を纏って佇む彼女を城の女性陣は密かに“プリンス”と称している。
彼女の腰にも、ベルトのように巻かれた赤い十字架。
ジェイドは机から椅子を引いて異国の医師を招いた。
持っていた鞄を机に置き、礼を述べて腰掛けると、シモン医師は微笑む。
「これから、どうぞ宜しくお願い致します」
その優しい表情に、ジェイドはつられて微笑みを返した。
「長旅でお疲れでしょうから、暫しおくつろぎ下さいね」
そう言った、ジェイドの横にいた女性、ファリア・ルドツークは静かに紅茶を淹れる準備を始めていた。
エラズルの姉である彼女は“リスティ”で、金の瞳に尖った耳を持っている。
腰よりも長い白銀の髪は光を受けて輝くかのように見えた。
肩と背の開いたドレスを纏い、ケープを羽織っているのは彼女が“天使”の本性を持つが故である。
彼女の赤十字は、首のチョーカーから胸元にかけて掲げられていた。
ファリアを手伝うのはエメラルドの妹、アクアマリン・ローレッツィ。
“ヴェルファ”の証は兄と同じく頬にあるが、彼女は虎の者だ。
綺麗に揃えられた水色の髪に深い青色の瞳の彼女は、少々動き難そうな着物を着込んでいる。
しかし彼女自身は服による動きの制限など慣れているようだった。ファリアから紅茶のカップを受け取るとシモンの居るテーブルへとそっと置く。
「先生が来て下さって、大変嬉しゅうございます。どうぞ、兄様達を宜しくお願い致します」
深々と頭を下げるアクアマリン。幼いながらに彼女もまた、怪我の多い兄による気苦労が絶えないようだ。
「私にどれほどのことが出来るかは判りませんが、精一杯務めさせて頂きますよ」
シモンはまた微笑んだ。
こうも人の心を和らげるような微笑みが出来る彼は、きっと医師が天職なのだろうとジェイドは思った。
そんなゆったりとした時間が流れたのも束の間、元気な足跡が近付いてきて振り返る。
二人分の足音。
予想通りに王の婚約者付きの侍従と侍女の双子が姿を見せ、ジェイドは苦笑いをする。
王の婚約者、ルビーは恐らく王や騎士隊長と居るだろうから、この二人は手空きになったという訳だ。
「こんにちは、初めまして!」
「ロゴートからはるばる来て下さった先生にちょっとお話うかがいたいですー!」
ブラッド・ストーンにムーン・ストーン。
明るい茶色の髪に、黒に近い灰色の瞳、色違いの長衣の2人は良く似ている。
ブラッドが伊達眼鏡をかけ、ムーンの方が髪が長いことが判りやすい特徴か。
この城一番の情報通と噂好きの双子が、シモン医師を放っておく筈が無い。
鬼隊長にも同様に突撃をしかける勇気があるか否かは判らないが。
「気持ちは判るが、先生は先ほどお着きになったばかりなんだから…」
「いえ、構いませんよ」
ジェイドが諭したが、シモンは快く二人を迎え入れた。
歳はお幾つですか、この国はどうですか、そんな当たり障りのない所から質問攻めが始まって、彼女は溜息。
その様子に気づいたファリアがくすりと笑った。
こうやって身の回りに変化が起こる、その時に改めて時の流れを自覚する。
窓の外は明るく、木々も緑に色付き始めて。
ウィルベルグにはいつの間にか春が訪れていた。

国が誇る金を護る銀がふたつ、城の五階にある王の自室に初めて揃った。
広く、華美である中にも質素を好む人柄が現れる装飾のその部屋はそれだけで難攻不落の砦になったと言って良い。
金の髪に碧の目を持つ英雄王は窓際の椅子に座っている。
その傍らに立つ紅い宝石は彼の婚約者、ルビー・ラングデルド。
「あなたがここへいらしていたとは驚きでした、ディア・ドール」
騎士隊長の言葉に、壁に背を預けていた王宮魔術師は静かに返した。
長い銀の髪、真紅の目に尖った耳、“リスティ”に近い特徴を持つ彼は人ならざる“エルフ”。
「ここへ来ることは、もうずっと前から決めていたからね。また会えて“嬉しい”よ、シルヴァ・ゴーグェン」
闇色のコートを纏う彼の開いた胸元には赤い十字の模様。
入れ墨にも見えるそれこそが、王のマント、そしてその腹心達の衣装に十字があしらわれる所以だ。
「シルヴァ、よく戻った。長く異国での任務、本当にお疲れ様」
「いえ。……私事も少なからず含む任務で、城を長く空けて申し訳ございませんでした」
「命じたのは他でもない私だよ、シルヴァ」
王になってもなお、滅多に「ご苦労様」と言わない彼の優しさは長所でもあり短所だ。
騎士隊長シルヴァは王に頭を下げた。
「不在の間、何かお変わりの事はありませんでしたか」
シルヴァは問う。
丸一年も経てば変化が無いことなどあり得ない。
銀髪の王宮魔術師が王とともに居ることもそうなら、王の傍らに彼の婚約者が居ることもそうだ。
「……確かに、色々とあったな」
質問の意図するところは内容の把握なのだろう、しかしそれはとても一口に話せる内容ではなく、王はそう答えることしか出来なかった。
話さないという訳ではない、今この場で話してしまうことをしないだけで。
――この王宮魔術師がここに居る過程をかいつまんで話したとすると、この場が一気に険悪な雰囲気に陥るようなことを考えると少しだけ面白いような気もしたが。
シルヴァも王の意図を汲んだらしい。それ以上の追求はしなかった。
しかし、謁見室で再会してから王が見せている笑顔の僅かな翳り、それを放っておくことが出来るような人間でもなかった。
「……陛下、もしやご気分が優れませんか?」
そういう類ではないと長年の付き合いで悟りながらも、控えめにうかがう。
「いや、健康そのものだが?」
王の言葉は本物だ、しかし苦笑いする姿から、「鋭いな」とでも言っているようなことをシルヴァは感じ取った。
「貴族達の間でまた何かございましたか」
気がかりなことでもあるのですね、それは暗にそんな問いだった。
紛争終結後にジェミニゼルが国を統一してからも、戦いに良くも悪くも関わった諸貴族の間には様々な問題が残されている。
シルヴァが国を離れる折に最も心配に思っていたのもそのことだった。
ジェミニゼルに反感を抱く者が反旗を翻すことも十分に考えられるのである。
「ああ、残念ながら」
肯定の言葉に、シルヴァはもともと固い表情を更に厳しくする。
黙っていたディアも目線をそちらへ向けた。
しかしその詳細は続かず、国王はまた苦笑い。
「シルヴァ、あなたは昔から真面目すぎるんだ。戻ってきた今日ぐらい、国や仕事のことは忘れるべきだよ」
「しかし、陛下」
「いつもそんなだから騎士達が必要以上に緊張するんだぞ」
「……心得ました」
思い当たる節はあるらしい、ばつが悪そうな顔をしたシルヴァを可笑しそうに王は見た。
「先生の歓迎はあなたとフローライトの帰還祝いも兼ねているんだから、それぐらいは楽しんだ方がいい」
「君が居ない間に加わった“可愛い”後輩達を怯えさせないように気を付けることだね、シルヴァ」
ディアが付け加えて、鬼と呼ばれる騎士隊長は小さく溜息をついた。
――王が気にかけているのが貴族のことなどではないような、その引っかかりを言葉にしないまま。
ルビーが安堵させるかのように肩にそっと手を置き、漸く王が安らいだ微笑みを見せた。