1・春風-3

夕刻、空が茜色に染まり始めた頃に大食堂で歓迎会の準備が整った。
パーティと呼ぶ程豪華で派手なものではないが、食堂の通常業務を停止した状態で、多彩な料理やデザートがテーブルに所狭しと並べられている。
一番奥の大きなテーブルには会の主役に王、そしてその腹心達の席がある。
それ以外の席は開放され、城に仕える者達が自由に出入り出来るようになっている。
参加は強制ではないが、これから世話になるであろう医師の顔を見ようと多くの者達がやって来るだろうことは予想された。
シモンを連れ、ジェイドがファリアとアクアマリンと共に大食堂に現れた頃には既に殆どの座席は埋まった状態であった。
彼女達に会釈をする物、挨拶をする物、様々である。
ジェミニゼルとルビーの席は奥側の中央、ディアとシルヴァの間にあたるが、ディアを除く三人の姿は未だ見えなかった。
フローライトも未だ現れてはいない。
シモンは王の向かいの席。ジェイドはその横である。
ディアの隣を一つ空けて座っているのはエメラルド、その正面がエラズル。
サファイアとロードナイト、そしてパオもそれぞれの席に座っている。
暫く他愛のない会話が続いていたが、王がシルヴァとフローライト、そして婚約者を連れ立って現れると場がすっと静かになった。
楽しい歓迎会の場に少なからず緊張感が混じったのは恐らく騎士隊長の存在故で、それに気づいたフローライトが彼を軽く肘で小突くと、騎士達の間に戦慄が走る。
しかし鬼隊長は本領を発揮することもなく流し、彼らはテーブルに向かった。
シルヴァは椅子を引き、王と婚約者を席へと促す。それから自分も席につく。
フローライトも自分の席に座り、空席はディアの横にひとつだけ。
ジェイドは無意識にその座席を見ていたことに気づき、視線を背けた。
するとエメラルドと目が合う。
何を言うでもない。
ただ、目を合わせてしまったことで、その空席が埋まらないことを互いに確認してしまっただけ。
エラズルが少しだけ顔を顰めると、何故か未だ現れないその誰かに腹を立てるようにシルヴァが空席を睨んだ。
そのままシルヴァが何か言う、それを阻止しようとしたジェミニゼルが口を開く、前に。
「きゃあ!!」
入り口近くに居た女官の悲鳴が響き、黒い何かが食堂に乱入した。
「――!」
反射的に、王の腹心の剣士達は武器に手をかける。
酷く興奮しているようなそれは、小さな“グリート”だった。
かつて“魔物”と呼ばれて恐れられていたこれらの生き物の長と王は協定を結び、現在は徐々に良い関係を築けるようになってきている。
しかし、長年の偏見や恐怖は簡単に消えるものでもなく、“グリート”に苦手意識を持つ者や、憎しみに近い感情を持つ者も少なくない状態である。
突如現れた“グリート”は中型犬ほどの大きさだが、その大きな銀の瞳はそれが“魔力”を持つ生き物だと示していた。
女官や文官達は突然の出来事に混乱して悲鳴を上げ、“グリート”はその声に驚いて更に落ち着きを失った。
目で追うだけで精一杯の速度で床を駆け回り、逃げる。
何とかしようとジェイドが席を立った瞬間に息を切らした騎士が数人駆け込んできて、それに気づいた“グリート”は猛スピードで食堂を駆け出て行った。
ジェイドは追いかけていこうとする彼らを呼び止める。
「何があった?」
「見張りを、して、いてっ、どうやら、迷い込んだらしいので、す……」
余程必死に追いかけていたのだろう、騎士は途切れ途切れに話す。
その表情が一瞬で蒼白になったのに気づいたジェイドが振り返ると、そこにはエメラルドとロードナイト、そしてシルヴァが立っていた。
「ど、どうやら、子どもに追い回されでもしたのか、怯えていたのが、我々が下げている剣を見て、余計に」
「何とか、保護して、落ち着かせようと、思ったのですが」
「大人数で追いかけ回すのが逆効果だと判らんのか」
厳しいシルヴァの一言に騎士達はすくみ上がる。
「騎士隊長、私が行って参ります」
助け船を出してやった訳ではないが、ジェイドが言った。
「あれだけ怯えて興奮しています、間違って魔術でも使われては怪我人が出るかもしれません」
「我も行こう」
「手分けして探し、追い込んで保護した方がいい」
エメラルドとロードナイトも続ける。
シルヴァは頷き、騎士達に持ち場に戻るよう告げた。
どう動くか理解したらしいエラズルもやって来て、加わる。
「手伝いますよ。あなた方では追い込んだとしても保護は出来ないでしょう」
魔術は“リスティ”のロードナイトも使うことが出来るが、彼の得手とするものは主に攻撃手段や攻撃補助の類である。
相手を捉えたり足止めするといった魔術に最も長けているのはエラズルだった。
「ありがとう」
ジェイドが礼を述べ、彼らは食堂を出ていった。
集まった者達は漸く落ち着きを取り戻し、大食堂に静寂が戻ってくる。
その様子に、シルヴァは少しだけ満足げに口元を上げた。
国王の元に集まった腹心達は、それなりに皆を率いるだけの力を持っているようだ、と。
「戻ってくるまで待とうか」
シルヴァが席に戻るとジェミニゼルが提案した。
それは提案であったけれども、異議を唱える者が存在する筈がない。
「パパは歳だものね。走り回るなんて無茶はしないほうがいいわよー」
フローライトが笑い飛ばして場が明るくなると、また各々が談話を始めて和やかな空気が戻ってくる。
その発言に驚愕した者も多かったが、詳細や真偽を問うことが出来る者は誰一人として居なかった。
ジェミニゼルはディアの横の空席に視線をやって、目を伏せた。

廊下には、腰を抜かしたようにへたりこむ姿がいくつも見受けられた。
階段を上っていってしまったという情報を得ると、騎士達は上の階へと駆ける。
“グリート”が二階を動いた痕跡は無く、足跡は階段の上に続いている。
三階も同様だった。口には出さないものの、エラズルは図書室が荒らされなかったことに安堵する。
四階、どうやらここを駆け回ったようだが、更に上に行ってしまったと目撃者が言う。
グリートが逃げてきたことを考えてロードナイトが四階の階段付近に残り、残りの三人は五階へ進んだ。
左右に分かれ、奥で繋がっている廊下を別れて進む。途中に居るのなら挟み込める筈だ。
ジェイドとエラズルは右、エメラルドは左――そこに居た。
“グリート”はエメラルドに気づくと一目散に奥へと逃げ出す。
「ジェイド、おったぞ!」
エメラルドは彼らに伝わるよう大声をあげた。反対側から駆けてくる二人は恐らく途中で待ち構え、エラズルが魔術で捕らえてくれるだろう。
それは確かに完璧な作戦で、その作戦が最も適していたことは明らかだった。
ただ唯一の誤算は、左の廊下突き当たりの窓が大きく開け放たれていたこと。
気づいたエメラルドが苦い顔をするが、この状況ではどうすることも出来ない。
突き当たりに出た“グリート”は、進行方向に新たに二人の存在を見つける。
背後から一人、進む先からも二人。
混乱の極みに陥った“グリート”は、予想できる最悪の行動を取ってしまった。
半狂乱状態で、窓に飛びつく“グリート”。
エメラルドは反射的に手を伸ばしたが、届く筈がない。
状況に気づいたエラズルの魔術も間に合わない。
「ロード、廊下突き当たりの窓だ!!」
ジェイドが叫ぶが、その声は彼に届いたのか、意図が伝わったのか。
五階の窓からその姿が踊り出すのを、阻むことが出来ない。
外に出てしまえば、そこに支えるものは何も無く、後は落ちてしまうだけ。
「――あ、っ!」
悲鳴にも似た声があがる。
そのほんの一瞬の出来事を誰もがゆっくりと感じていた。
落ちる。
視界から“グリート”の姿が下に消える、その前に。
――――春風が、小さな体をさらった。
それは反射的に目を閉じてしまう程強く。
だけれど目に焼き付いて離れないほど鮮やかで。
紅い色の、そして。

「……あら」
ふとサファイアが呟いて、それに気づいた者は彼女の視線を追った。
ひらり、はらり、窓の外を舞うのは赤い色。
「花弁、じゃ、ないわね…」
違う、あれはそうじゃなくて。
彼女は立ち上がった。
彼女だけではなかった。
王も、その婚約者も、傍らの王宮魔術師も、彼の隠密も、そして白亜塔の天使も。
「陛下?」
何事かとシルヴァが訝しげにしたが、ジェミニゼルは答えなかった。
答える余裕は残されていなかった。


言葉は出てこなかった。
ただ、駆けた。
君の名を呼ばなかったのは返事が無いのを恐れただけで。
君を思わなかったのは不在を確かめたくなかっただけで。
嘘だ。
本当はずっと呼んでいた。
忘れたことなど一日たりと無いと話せば信じてくれるのだろうか。
変わっていく世界に逆らい続けることなど不可能だと理解できないほど愚かではなくて。
だけれどずっと、君を取り残していく変化に上手く笑えなかったんだ。


勢い良く城の入り口の扉を開け放つ。
ここまで息を切らして走ったのはいつぶりだろう、エメラルドはそんなことを考えた。
一刻一秒でも早く辿り着かなければ風が消えてしまうのではないかと恐れた。
恐れ、突き動かされた。
だが、顔を上げると、春風はまだそこにいた。
人一人が乗れるぐらいの、金の瞳の赤い竜。
柔らかな体毛に覆われたその優雅な姿はいつか見た“グリート”の長の姿に似ていた。
そして、その、紅い羽根が散る中に、琥珀色の。
すっかり落ち着いて抱かれていた“グリート”を地面に降ろし、彼は顔を上げる。
「……何阿呆面晒してんだよ、ラルド」
その姿は幻ではないか、そんな思いは声が掻き消してくれた。
風に靡く、柔らかい肩までの琥珀の髪。
左が翡翠、右が琥珀のオッドアイは彼が生きている証。
茶のロングコートにベルトで走る赤十字、変わらぬ姿。
伝えたいことは沢山あった、それなのに一つも紡げない自分が不思議でならない。
声に出せずにいたその名でさえも。
「アンバー」
静かに、確かめるように名を呼んだのはジェイド。
駆けてきた勢いそのままに、数歩進み出る。
翡翠と琥珀、互い違いの瞳が合った。
姿も知らない、声も知らない。
それでも目の前に立つのが、そうだ、と判っていた。
「ジェイド」
ずっと聞きたかった声が名前を呼ぶ。
やっと手が届く、背中合わせで生きてきた平行線の君。
「会いたかった」
抱きしめて確かめる、やっと、会えた。
驚いたような、照れたような表情の彼と目があって、エラズルは呆れたように溜息をついた。
何の音沙汰も無しに数ヶ月消えたと思ったら、何の前触れもなく帰ってくる。しかも女性に抱きつかれて棒立ち。
全くもって王宮に仕える者としての自覚が足りなすぎるのだ、彼は。
落ち着きは無いし煩いし、静かな生活とはこれで完全にお別れだ、ああ、何て腹が立つ。
腹立たしくて仕方がない、だから泣きそうな錯覚を覚えるんだ。

「アンバー、ルビィ」
背後からの声にジェイドはアンバーから離れた。
彼までもが走ってきたというのか、琥珀色の騎士は目を見開く。
ジェミニゼルが近付くと、人が乗れるほどに大きかった赤竜が掻き消えるように小さくなった。
兎ほどの大きさになった竜は王のもとへ飛び、頬に擦り寄る。
彼の後ろには、駆けてきた皆が揃っていた。
「おかえり」
それは、ずっと言いたかった言葉。
威厳ある立ち姿が発する優しい声。
王の近衛騎士、アンバー・ラルジァリィは変わらぬ笑顔で告げた。
それが、ずっと聞きたかった言葉。
「ただいま」

1・春風 End