1・春風

ウィルベルグは平和な国だ。
何年もの間続いていた国内紛争を一人の王が鎮めて以来、活気と笑顔を取り戻した国。
殊にその中心であるウィルベルグ城は、慌ただしいながらもその雰囲気を体現している。
だからこそ、この緊張に満ちた、誰もが声を発するのを恐れているような状況はただならぬ事態としか言いようが無いのである。

場を凍り付かせ、身動き一つなされない空間に仕立て上げたのはたった一言だった。
それは日常生活でもごく普通に用いられる、意味を取り違えようも無い情報伝達。
「陛下、シルヴァ殿がお戻りになられました」
微笑みを浮かべていられたのは頷いた国王ジェミニゼルと、その傍らに控える長身の王宮魔術師だけであった――もっとも銀糸の髪を持つ魔術師のそれは、公的な場で常に口元に貼り付けられているものではあるのだが。
それより他、謁見室に顔を並べた者達は皆――勇猛な王の近衛騎士や、有能な王の秘書官でさえも――顔を強張らせて立ちすくんでいる。
キィ、と扉が押し開けられる音がして、その場の全員の意識がそちらに向けられた。
同時に眩しい昼の光が射し込み、逆光の姿と低く通る声。
「騎士隊長シルヴァ・ゴーグェン、只今戻りました」
足音が響き、黒の外套を羽織った長身の姿が現れる。
暗い、灰に近い銀の髪。修羅場を幾度も潜り抜けた風格を持つ鋭い茶の瞳。
ウィルベルグ王宮騎士隊隊長、シルヴァ・ゴーグェンその人。
場の視線と畏怖を一身に集めた騎士隊長は王の前に跪いてから振り返る。
「シモン殿をお連れ致しました」
続いた声は年若い男のもので、更に人影がふたつ。
緊張に満ちた部屋に物怖じすることなく、爽やかな笑みを浮かべた青年に連れられて入室した男性もまた、穏やかな微笑み。
異国の外套を纏うその男が進み出ると、国王は立ち上がって段を降りた。
フードを取ると、束ねられた黒い髪が顕わになる。膝をつこうとする男を制すると、王は彼と握手を交わした。
「ウィルベルグへようこそいらっしゃいました、シモン殿。歓迎致します」
「こちらこそ、宜しくお願い申し上げます」
シモンと呼ばれた男性は深く頭を下げると、流暢な言葉で答えた。
眼鏡の奥の深緑の瞳はまだ、穏やかに微笑んでいた。

「ふぅ……」
大食堂の一角にある椅子に、盛大な溜息と共に座り込んだのは王の秘書官、サファイア・ヴィクテル。
肩に掛かる程度の青の髪に、それよりも深い青の瞳。“狙撃手”の称号を持つ彼女だが、この長衣姿の方が城の者の目には馴染んでいる。
文官用のマントを胸元で留めている赤十字が印象的な姿。
何時如何なる時でも仕事は平然とこなしている印象の強い彼女でもここまで疲弊することがあるのだ、と、王の近衛騎士エメラルド・ローレッツィは妙に感心していた。
それだけ確かに、先の男が発する威圧感に凄まじいものがあったことも認める。
自分自身、あの謁見室を抜け出たことでいくらか安堵していることも。
「本当に、あの方はいつ見ても恐ろしいわ」
溜息混じりの苦笑い、そして心持ち小声の呟き。
前国王の代から仕えている騎士団長シルヴァの数々の武勇伝の一部は、まことしやかに城内に語り継がれている。
“戦神”シルヴァ・ゴーグェン、紛争の際に自らの軍隊を以て城を反乱諸貴族から守り抜いた男。
そんな彼について誰もが知る通り名が一つある――“鬼隊長シルヴァ”、意味はまさにそのままである。
「大層腕の立つ剣士なのだろうな」
「大層なんて言葉で済むレベルじゃないわよ」
お願いだから勝負を挑むだとかそういう馬鹿なことはやめておいてね、サファイアはマイペースなエメラルドに釘をさす。
紅の目、長い淡緑の髪をアップにして“着物”という自分の出身地の衣服を身につけているエメラルドは、獣人種族“ヴェルファ”の狼である。
その証となる、獣の牙を象ったかのような黒い模様が頬にあった。
腰に巻かれた剣帯と、“刀”と呼ばれる彼の剣の柄に巻かれている布は赤く、交差するそれが十字を形作っている。
戦闘を好む性格ではないが、剣をとって生きる自身に誇りを持っている彼が、強い剣士に関心を抱くのではないかとサファイアは懸念したのだ。
訓練や手合わせを通り越して決闘にでも発展してしまえば恐ろしいに加えて非常に面倒だ。
むぅ、と微妙な表情をしたエメラルドは放って、彼女はもう一度溜息をつくと立ち上がった。
「……さて、シモン先生歓迎会の準備の続き!パオも手伝ってね」
壁に寄りかかっていた異国の青年は無言で頷く。
そういえば彼は先ほど謁見室には姿を見せなかったようだが、一体どこに居たというのか。
この王の隠密的な仕事を受け持つ男が姿を見せないのは日常茶飯事なので、エメラルドは追求しなかった。
黒い瞳に黒い髪。後ろで束ねられているからか目立ちはしないが、彼の髪もまた長い。
前髪の一部が長いので、触角と称した者が居たが彼は気にも止めていないようだった。
この、何にも染まらぬ髪の色は、隣国の国の人間の特徴でもある。
縫衣と巻衣を合わせたような独特な作りの服もまた隣国のものだ。腰のあたりから下がっている布には、線が描く四角の模様。
黒と緑、そして下がった布の茶という地味な色合いの服の中で一際目立つのが、左袖の赤十字。
「エメラルドも、手が空いていたら手伝いに来てね」
言って、食堂を出ていくサファイアと彼女に続くパオ。
問答無用で連行されなかったのは彼女の優しさなのだろうが、そのまま付いていくタイミングを逃したとも言える。
エメラルドは先ほどサファイアが座っていた椅子に腰を下ろした。
隣国へ一年出向いていた騎士隊長が戻って来た今日に限っては、取り立てて彼に仕事は無い。
「歓迎会の準備」を考えてみても、何をして良いものやら思い当たらない。
そのまま何をするでもなく座っていると、不意に目の前に湯気をたてる緑茶が置かれた。
自分の出身地のこの飲み物を淹れられる者といえば、妹か或いは――
「どうぞ、エメラルドさん」
華の笑顔で声をかけてきたのは、厨房でパティシエ見習いとして働くユナ・カイトだった。
国王に直に仕える騎士であるロードナイトを兄に持つ彼女は、“歌姫”という別の顔も持っている。
肩までの長さの栗色の髪は天然のウェーブ。勿忘草の花の色をしたぱっちりした瞳が愛らしい少女。
「うむ、有り難う」
「騎士団長様、帰って来られたんですよね。何だか皆さん緊張した感じで……お兄ちゃんも少しぐったりしていたんですよ」
意外でした、と話すユナ。
エメラルドは戦時の隊長に会ったことが無かった。隣国に出向く前の隊長も然り。
しかし恐らく当時を知っているサファイア、そしてロードナイトをも恐れされる彼は一体どれほど厳しい人物なのか、彼には予想も付かなかった。
淹れて貰った茶をすする。美味い。
無意識にほころんだエメラルドの表情に気付いたのか、ユナは嬉しそうにした。
「でも、常駐のお医者様が来てくれて良かったです。ロゴートの、凄く腕のいい方なんですよね?」
「そう聞いておる。眼鏡をかけた、優しげな雰囲気の者に見えたな」
「だったら尚更嬉しいですね!やっぱり、緊急の時にお医者様がいてくれれば心強いですから」
それは騎士である兄を心配しての言葉だろう。騎士というのは何かと傷の絶えない仕事でもあるのだから。
恐ろしいと噂の騎士団長の帰還よりもそちらが嬉しいのか、緊張した様子は欠片も無い。
「今日の歓迎会、腕によりをかけて美味しいお菓子を作るので楽しみにしていて下さいね!」
会釈をして厨房に戻っていく彼女を見送ると、エメラルドは茶を飲み干した。
サファイアにもユナにも、どうやら気を使わせてしまったようだと苦笑する。
「歓迎会」というような場が苦手、不慣れ。
手持ち無沙汰でこうしている理由はただそれだけのことで、それが城に来た頃からずっと変わっていないだけなのだから。

ウィルベルグ城の三階、図書室は賑わいから隔離された場所である。
王国祭などの例外こそあれ、そこはそうあらねばならない場所。
時計の音、自らが本のページを捲る音。稀に他の誰かが本を探す足音。
図書室という空間を形成する音はそれだけでいい。
図書室の主とも呼ばれる王宮魔術師、エラズル・ルーンベルクはその静寂が好きだった。
青がかった紫色の長髪は手を加えられずに美しく流れる。長く、尖った耳は人工的に魔力を植え付けられた“リランナ”という種族の特徴である。
白を基調に、左袖の十字を初めとして赤の加えられたローブ姿に加え、金の瞳にかかる眼鏡という姿。
学識のありそうな風貌は、彼ほどその場に相応しい者は居ないとさえ思える程だ。
エラズルは開いていた本を閉じ、数冊の本の上に積み上げると、慎重に両手で持ち上げた。
視界が本で遮られる状態だが、構造を把握しているこの場所ではさしたる問題も無い。
他の者が歓迎会の準備にいそしんでいようが彼の仕事とは関係ないことである。
手が空いたならば手伝いもするが、まずは自分が研究資料に用いた書物を片さねばならない。
ぼんやりとそんなことを考えていたせいか、エラズルは自分の前の通路を曲がってくる足音に気が付かなかった。
「――!」
その誰かと彼の持った本は衝突を免れず、積んであったものが落ちる。
その瞬間に既視感を覚え、わずかに動悸が早くなった。
――ああ、何て下らない。
過去に似たようなことがあったとしても、それは「全く同じこと」にはなり得ないというのに。
それでも重ねてしまったのは無意識というもので、エラズルは乱れた髪を払おうと頭を振った。
「やだ、ごめんなさいね。アタシったら久しぶりなもので余所見していたから」
「いえ、僕の方こそ……」
エラズルは顔を上げて少なからず動揺した。
いやに優しい仕草で本を拾ったのは騎士団長と共に異国の医師を連れてきた男だった。
灰がかった紫色の瞳に、それよりも深い紫の緩いウェーブの髪。
やや下がった目尻、そして左の目元にある小さなほくろが印象的だ。
エラズルが謁見室で見た時には遠すぎて気づかなかったが、薄く化粧の施された顔はどこか中性的である。
否、女性的、というのが正しい。
謁見室で旅用の外套を纏った姿を見たときには彼も騎士の一人かとエラズルは考えたが、どうやらそうではないらしい。
ベストにスカーフ、そして王宮の文官の外套という今の姿からは気品のようなものさえ感じられた。
「ラズちゃん!?」
エラズルが正体を測ろうと思考を巡らせている対象であるその男の二言目を、彼が理解するのには数秒を要した。
どうやら勝手なあだ名で自分が呼ばれているらしい、と。
「ラズちゃんでしょう、エラズル君!」
無遠慮に肩を掴まれて顔を覗きこまれ、拒絶よりも先にエラズルは硬直するより他無かった。
「聞いてた通りホントに可愛いのねー!」
そして唐突に抱きしめられる、この理解の範疇を越えた行動は誰かに似ている。誰だ、自分の片割れだ。
自問自答を済ませたところで状況は変わらなかった。
矢継ぎ早に起きた出来事に呑まれ、王宮魔術師は「魔術を使う」という選択肢すら見出せなくなってしまったらしい。
至極偶然、そこを通りかかった王直属の騎士に訴えかけるような目線を送るのが彼の精一杯だった。
「……フローラ、イト」
騎士団には属さず、国王に直接仕える騎士であるロードナイト・カイトは立ち止まって怪訝な表情を見せ、呟いた。
薄青の髪に銀の瞳。耳が尖っているのは魔力を持つ“リスティ”である証。
額に水晶を戴く彼は、“晶角狼”という本性を持ち合わせている。
銀のマントの中で、左肩の赤十字が鮮やかな色を放っていた。
名を呼んだ相手が振り返った瞬間、それは反射的な行動だったろうがロードナイトの足が一歩引く。
彼の目に狼狽の色が現れたのはエラズルからも判った。
「え、ちょっと嘘、ロードなの!?」
男性の興味が逸れて漸く解放されたエラズルはとりあえず本を積み直した。破損は無いようだった。
ロードナイトはエラズルより早く城に来ていたし、フローライトと呼ばれたこの男はエラズルが来るより前に海を越えた隣国ロゴートへ赴いていたと王から聞いていた。
二人が知己の間柄であるということは想像に難くないが、仲が良かったとはお世辞にも言えないのは目に明らかだ。
フローライトはともかく、ロードナイトの方が、である。
「アナタあの覆面どうしたのよ?素顔惜しげも無く晒すって、あれほど追いかけたアタシが馬鹿みたいじゃないの!」
「……久しぶりだな」
「不景気なツラしちゃってまあ、イロオトコが台無しよ」
「それはどうも」
若干視線を泳がせて、淡々と受け答えをするロードナイト。
エラズル・ルーンベルグは賢い男だ。“博士”の称号を持つ彼は愚かな選択などしない。
一ミリたりと噛み合わない会話に横やりを入れた瞬間にこのつかの間の平穏が終わると悟っていた。
苦手な相手を極力避けるような行動を取るロードナイトが逃げないのではなく逃げられないのだということも悟っていた。
ついでに、何事も無かったように素通りしようとしたところで上手くいくということはそうそう無いということも。
彼が導き出した最善の行動は、その場に留まり傍観を決め込むことだった。
フローライトは未だ何か捲し立てていたが、ふと彼を振り返ると今更ながらの台詞を吐いた。
「自己紹介が遅れちゃったわね。アタシはフローライト。フローラと呼んで頂戴ね」
妙に力のこもった語尾は、エラズルと同時に先ほど愛称を呼ばなかったロードナイトにも向けられているようだった。
今日からまた城が余計に賑やかになるのだろう。
そんなことが頭をかすめると、エラズルは苦笑いしか返せなかった。