葉月十五日

仄かな香りは、距離を近付ける毎に強くなっていた。
華やかで心弾む花の香とは趣の異なる、しんと心が静まるかのような、白檀の香。
嗅ぎなれたそれは、少なくとも彼にとって、飾った香りより快いものであった。

その場所は、彼の実家を少し森側に進んだ所にある。
灰色の石が立ち並ぶその一番奥で、エメラルド・ローレッツィは足を止めた。
この場所に参ったのは何年ぶりになろうか。
年に一度、せめてこの期間のうちには、訪れることが慣わしであり、そして礼儀でもあったろう。
ただ、「志半ばで」戻り来ることを喜ぶとは、彼には到底思えなかったのである。

ああ、もう、5年になるか。

流れた時など感じさせることなく、記憶の中と変わらぬ佇まいのそれは、誰かがこの場所を訪れていたことを表していた。

イザヨイ、其れはこの里を守り抜いた、誇り高き戦士の名前。
ツキヒメ、其れは彼を愛し、支え抜いた美しき者の名前。
刻まれた碑はただひやりとした温度で、来訪者に応えた。

「兄様」
足音と声に振り返ると、彼の妹が花束を持って追いついてきた所であった。
「お待たせ致しました」
アクアマリンは花束の包みを優しく解くと、そっと墓標に供えた。
「父様、母様。ご無沙汰、しておりました」
普段と変わらぬ調子で、だが、単語の一つ一つを噛みしめるように囁かれた言葉。
彼女が目を閉じ、手を合わせるのに、彼も倣った。

故郷の香りのせいであろうか。彼の瞼に浮かぶのは桜の花であった。
夜桜。
月の光が映し出した、薄桃、そして、赤い。
忘れることは出来ぬ、否、忘れてはならぬ、一夜の出来事である。

「父様、母様。アクアも、兄様も、ご覧の通り健在です」
閉じていた目を開く。
「今年の夏は、特に暑うございますね。
 城からこちらに参るのも、少しばかり大変な道でありました」
語りかける表情は優しく、寂しかった。
少なくとも彼の目にはそのように映った。

彼女の言葉が、誰にも、少なくとも今聞いている自分以外には届かないことを、エメラルドは知っている。
アクアマリンもまた、解っていた。
それでも尚、日常の些細なことを語る妹の姿を、彼が愚かだと思うことはなかった。
エメラルドは、何を考えるでもなしに手に持った団子を口に運びながら、妹の言葉に耳を傾けていた。

「――では、アクアはお暇致しますね」
言葉を切ったアクアマリンを見下ろすと、彼女は一礼をして、彼に向き直った所だった。
「兄様、私は先に戻っております。
 兄様も、どうか遅くなりませんよう」
うむ、と短く答えるのを聞くと、アクアマリンは元来た道を戻っていった。
その姿が見えなくなると、エメラルドはまた、墓標に向き直った。
ややあって、口を開く。
「……父上、母上」

続く言葉を紡ぎ出すことが出来なかった理由は、彼自身にも解らなかった。
彼らがもし望むとしたら、一体どのような言葉であろうか。
少なくとも、その逡巡だけが理由という訳ではなかったのだが。

刃を向けた、そして手を下したことに対する、謝罪か。
――否。
例え聞き入れられずとも、許しを請うこと、それ自体が自身の弱さである。
エメラルドはそのことを承知していた。
少なくとも、彼にとってはそれが真実であった。

長らく顔を見せずにいたこと、申し訳なく思っている。
見ての通り、健在である。
空白の5年の出来事を、ぽつりぽつりと胸中で口にして、エメラルドはもう一度、目を閉じて跪き、手を合わせた。
一筋の涼風が、高く結われた緑の髪を揺らしていった。

End


エメラルドとアクアマリンが盆に帰る話。
城で一年が経ち、改めて両親の墓参りに赴いたイメージです。
彼らの父親はイザヨイ、母親はツキヒメといいます。
やけに静かな話になってしまいました。

2011.09.11