15・相棒-2

秋の夜の空気は冷たかった。
見上げれば、高く、高く、大きな満月。
中庭の噴水辺りまで来た時に、アンバーは歩みを止めた。
後ろを追ってきたエメラルドも立ち止まった気配がした。
ざざ、と。
振り向いた時に木がざわめいた。
「何でついてくる?」
「…話の途中だ」
月明かりで映し出されるエメラルドは、眉間に皺を寄せて立っている。
不機嫌なのか、怒っているのか――それは判らない。
アンバーはそれを見て微かに笑った。
その難しそうな顔は癖なのか、自分が彼の話をはぐらかそうとする度に見る表情。
「ルビーは、俺が迎えに行ってくる」
「我も行く」
「……俺が約束したんだ。ここに居たいって言うあいつが、ここに居られるよう頼むって。大体、ジェムの近衛騎士がしょっちゅう二人同時に城抜けていいはずないだろ」
「しかし、だからといって単身向かうなどとは許せぬ…!」
真っ直ぐな紅い瞳から伝わって来るのは、自分に対する純粋な心配。
真っ直ぐで、強い瞳。優しい瞳。
どうして、と。
小さく、風に溶けるような呟きを洩らす。
何を言ったのか判らなかったようなエメラルドが問い返してきた。
アンバーは黙った。
――どうしてお前はそこに居る。
どうして俺から離れていかない。
もう信じないと決めたのに。
巡る言葉は声にしない。
「……アンバー、我は、お主を無くしたくはないのだ」
淡々と、どこか感情を押し込めるように吐き出された言葉。
「我は“お主”を知らぬ…そしてお主は“我”を知らぬ。だがな、アンバー…我はお主のおかげで此処に居られると言っていい」
ただ立ちつくして、アンバーは聞いていた。
「かつて、我が半獣化して症状が残った状態で城へ戻った時、散々我を棒で小突いた後に言ったことを覚えておるか?」
「……『今度またこんなことになったら、他の奴に迷惑かける前に俺の所に来い。叩き戻してやるから』」
思い出しながら答えると、エメラルドは続けて問いかけてきた。
「その言葉に我がどれだけ救われたか、お主に判るか?」
無表情を装っていたアンバーの表情が翳った。
――過去に告げたその言葉は確かに本心。
だがそれは、信頼だとかそういう類の心をもったものではなく、ただ普通ならばそうするだろうと。
それだけの意図しか持たない言葉。
「お主は“ヴェルファ”の我を恐れ、嫌悪することなく、そういう存在として見てくれている…それは主にとっては至極当然のことなのかもしれぬ。だがそうではない。皆が主のような考えを持っていれば、種族間のいがみあいなど存在せぬ」
何も気にしていないかのような普段の表情が作れないことをアンバーは自覚する。
それなのに、目の前の相手から目を逸らせない、隠せない。
「“ヴェルファ”に共存は不可能かもしれぬ…その恐怖をいつしか打ち消したのは、お主のその隔て無い振る舞いだ」
「俺は、何も」
「我だけではない。エラズル…あやつが今躍起になって取り組んでいるのはお主を救うための研究だ。何があやつをそう駆り立てるのか、考えてみよ」
「…は、エラズルが…?」
別に頼んでない、そんな憎まれ口を叩こうとはしてみる。
しかしあまりの意外さに驚きしか沸き上がらない。紡げない。
「お主がそうやって人の心を変えるのは無意識か…だが、それが、お主の強さだ」
――強い?
向けられた言葉を頭の中で繰り返し、アンバーは唇を噛んだ。
言葉が漏れてしまわないように。
何も覚られないように。
ぐるぐると、胸を、頭を巡る不快な感情。
どうしてか、涙が流れそうになるのは身体が不安定だからだ。
言われたことを一々気にかける、そんな、女々しい感情。
今までの自分ならば何とも思わなかった筈だ。
何かが変わっていく、変えられていく、その気持ちの悪さ。
それは身体のせいだ。それ以外にあり得ない。
それ以外には――――
「我は、主の相棒でありたい」
目を閉じ、アンバーはゆっくりと息を吐く。
「何なんだよ突然改まって」
目を開いた時には、彼は笑っていた。
「…アンバー」
彼が“作った表情”に戻ったことなど、エメラルドはすぐに気づけた。
そして、これ以上今の話題を続けないことに決める。
「ルビーのことは、ジェムに指示されるまで勝手に動けないしな。…まあ、森へ行くのに俺を外すって言ったら流石に従わないけど」
噴水の縁に座り、アンバーは夜空を仰ぐ。
「…折角の満月だから酒でも呑みたいところだけど、生憎今持ってないしな」
「里に居たときは、我はいつもそうしておった」
アンバーの横に腰を下ろし、エメラルドは話し始めた。
「我等“ヴェルファ”は半分獣であるからな。満月の夜は獣の血か…なかなか寝付けぬ」
「ああ、成程」
「我は長などと集まって酒を呑み交わすことが多かった。皆が寝てしまっても我は“狼”…最も月の影響を受けるからか、眠れずにほとんど一人で朝まで起きておった」
「へぇ…」
興味深そうに相づちを打つアンバー。
聞こえるのは風の音と噴水の水の音。
無駄な明かりも無く、昼間のざわめきも無く、心地よい静けさが支配していた。
「…“ヴェルファ”ってのは獣人種族で、獣化出来て、完全に獣化したら戻れない。半獣化した後は獣の性質が残る…俺が知ってるのはサファイアから聞いたこれぐらいだったからな。あと…結婚が早いとか前に言ってたっけ」
「まあ、おおよそそんな所だ」
「他に何か特徴とか無いのか?」
アンバーがそのように尋ねてくることは珍しく、悪い気はしなかった。
エメラルドは思いつくままにぽつぽつと語る。
「そうさな…サファイア達には話したが、“ヴェルファ”は階級社会だ。純粋な血統を持つ物が里で権力を持つ」
「お前は…混血、だったっけ」
「うむ。“狼”と“虎”…故に、我の血統は低い。それ故、だったのだろうな…我が剣に打ち込んだのは」
「実力で、って?」
「認めて、欲しかったのだ。里でも五本の指に入るような剣豪で血統高き父や、母、そして里の者に」
語るエメラルドに悲痛な色は見えなかった。
ただ過去を思い返す、穏やかな眼差し。
「お前の親父…血統高かったのに、それを高める結婚はしなかったんだな」
「うむ。父は他から隔たった“ヴェルファ”の中でも外に目を向けておった。古くから続く制度へ疑問を抱き、他種族との融和も計るべきだ、と。我やアクアのこの“ヴェルファ”らしからぬ宝石の名前も、そんな父がつけたものだ」
「見事に兄妹揃って里を出た訳だ」
「そうだな」
エメラルドは笑う。
笑ったその後に、少しだけ物憂げに、左袖の毛皮に触れた。
「この毛皮が父の形見だ。我が、仕留めた」
「……え、っ」
「父も母も、獣の一団が里を襲った時に、里を守るために獣化した。そしてその二人を我が狩った。…“ヴェルファ”には獣化した者を狩る掟があり、仕留めた毛皮はその者の勲章となる。他の誰にも渡したくはなかったのだ」
「あの、アクアが持ってる方が母親の、か」
「そうだ」
「…そっか」
言ったきり、アンバーは黙った。
もとより慰めの言葉が欲しくて話した訳ではない。
それを話したことで返ってくる反応が嫌悪などではないことが、予想してはいたが、嬉しかった。
エメラルドはまた微笑みを浮かべ、噴水のほうを見た。
揺れる水面に朧気に映る丸い月に手を伸ばすと、その像がかき消える。
「里から見る月も風流だが、春の桜は何よりも美しいのだ」
「桜、か」
「我の一番好きな花だ。出来ることなら、お主やルビーにも見せたい……ジェイドにも」
ジェイドの名前が出て、アンバーはエメラルドを見た。
「…いつか、皆で行けると良いな」
何かを恐れるようなアンバーの表情は、その一言で和らぐ。
行きたい、という呟きに、エメラルドは頷いた。
日常の会話のやりとり。
それがこんなにも長い時間に感じられたことは無かった。
アンバーを見やると、彼が顔をしかめている事に気付く。
「…アンバー、何事か?もしや体調が優れぬか?」
「大したこと、無い、けど」
気分が悪そうに俯く姿に、消えずにいた不安が広がっていく。
「冷たい夜風は身体に毒だ。もう部屋に戻るが良い」
「…そうだな」
ややふらついてアンバーは立ち上がる。
エメラルドが手を貸そうとすると、彼はやんわりと手で制した。
「平気だから」
そう言って歩き出す彼の横を、エメラルドは歩く。
いつ彼が倒れたとしても、手が届くように。
アンバーは自室に着くまで何も話さなかった。

2005.07.27