15・相棒

元気良く城内を駆け回る少女の姿が見えないだけで、ウィルベルグ城はやけに閑散として感じられた。
彼女とよく一緒に居る王の近衛騎士も“休み”のようで、静けさに違和感が募る。
大分寒さの増した気候の中、舞い散る紅葉が庭を覆っていく秋の日。
ジェミニゼル国王が腹心達を自室に集めたという話は城中に広まり、軽々しく明るい話題を口にする者は居なかった。

“ルビー”は、“グリート”。
国王に告げられた事実を受け入れながらも、驚きのあまり頭の整理が追いつかないのだろうか。
そうに違いない、と、エメラルド・ローレッツィは自身の不快感を理由づけた。
ルビーは先日保護した“グリート”とともに姿を消した――行き先は長の住む森ではないか、というのが王の見解だった。
胸に広がっていくもやのようなものは、ルビーや、黙っていた王に対する嫌悪などでは決して無い。
何か純粋な居心地の悪さ。
「…エメラルド、大丈夫ですか?」
共に王の部屋を後にしたエラズルに声をかけられて、それが態度にも現れてしまったことに気付く。
「何事も、無い」
取り繕ってみても、エラズルの金の双眸は全て見抜くような色を湛えている。
「平常な人間は、今のあなたのように眉をひそめたりしませんよ」
「むぅ……癖、なのだろうな」
――――『また難しい顔してるぞ、お前』
今この場には居ないアンバーにかつて指摘された言葉がふと、頭を巡る。
アンバー・ラルジァリィ。
仕事をともにする彼がこの目に映っていない。
此処に、居ない。
脳内で反芻してようやく、気付くこともある。
解ってしまえば簡単なことなのだ。
以前にも同じように、後から気付かされたその感情。
それが自分自身にこんなにも存在していたことを、諦めにも似た感情でエメラルドは受け入れた。
――怖い。
以前にそう感じたのは、“ヴェルファ”としての自分が拒絶されることに対してだった。
いつしかその“恐怖”が薄れていったのは何故か、それは――
「……僕が何とかしてみせます、から」
間があって呟かれたエラズルの言葉は強く、だが、虚勢のような弱さを伴っていた。
その様子からも、彼がしようとしていることの困難さが窺い知れた。
「もう少しだけ待って下さい」
自身を落ち着けるように言葉を紡ぐエラズルに、エメラルドは何も言うことが出来なかった。

窓から、紅葉が落ちてゆくのが見えた。
外はやや風が強いようだ。色づいた木々が揺れている。
ひとひら、ひとひら、舞う葉の色に過ぎてきた日々が重なる。
無機質な塔の白い壁も相俟って、その風景はやけに寒々しい。
「はい、ジェイド」
ジェイド・アンティゼノは、自分の前に紅茶のカップが置かれた音で室内に視線を戻した。
清らかに流れる銀糸の髪の天使が微笑む。
ファリア・ルドツーク。
彼女は自分と出会ってから笑うようになった。
そしてその笑顔は今、自分のせいでどこか翳っている。
彼女は平常心のつもりなのだろう。しかしそうではないということを、すぐ傍で見ていたからこそ感じるのだ。
ファリアが、座っている長椅子の横に腰を下ろすと、また沈黙に包まれてしまった。
何を、話そうか。
何かを話さなければならないと思って此処に来たというのに。
紅茶の礼を言うタイミングを逃したことに今更ながら気付く。
「リア、私は……」
呼びかけた言葉に、彼女の注意が向けられる。
綺麗な金の目をしばたかせて、ファリアは続く言葉を待っているようだった。
本当の事を、話そうと、思って。
話しておかなければと、そう思ったのに。
言葉というものを忘れてしまったかのように紡げない。
「ジェイド?」
“イルゼム”であること。
変異体であること。
身体の調子が良くないこと。
ただそれだけのことを告げるだけなのに。
それだけのことを告げておかなければ。
――もしも近いうちに消えたときに、彼女はその理由を理解できない。
「…もしかしたら、しばらく遠出しなければならなくなるかもしれないんだ」
頭を占める事とは別の事を言葉にして、ジェイドは苦笑した。
それは確信に近い予想。
ルビーのことを知った彼が――アンバーが、どういう行動に出るのかぐらいは判る。
「そうなの……大丈夫?このところ顔色が優れないから…」
「季節の変わり目で風邪でも引いたかな…大したことは無い」
そう言っても、心配そうな色が彼女の顔から消えることは無かった。
風邪を引いたかもしれない、ただそれだけのことについて彼女はそんなにも気にかける。
だからだ、と、ジェイドは思っていたことを押し込めることに決めた。
本当の事を話したら彼女は泣いてしまう。
きっと自分の為に泣いてくれる。
自分を思ってくれる大切な彼女の涙を見たくはないから。
「私も一緒に行けたらいいのに」
独り言のように呟かれたその言葉。
ふと寄りかかってきた彼女の柔らかな髪を撫でて、返事をする。
「…一緒に出掛けよう、いつか」
それはお互いに、確約になりはしないと判っていても。

日付が変わって間もない時刻、廊下に人の姿は見られなかった。
この部屋に来るのはもう何度目になるかと何気なく考えてみたが、答えは出てこない。
仕事の待ち合わせ時刻に彼が現れず、ここまで起こしに来たことも何度か――何度も、あったが。
この部屋にゆっくり留まったことは無いような気がする。
気が付かなかった距離感。それを今になって実感する。
エメラルドは気を落ち着けるように息を吐くと、見慣れたその扉を叩いた。
「アンバー、居るか?」
「…ああ、いるよ」
短い言葉が返ってくるまでには数秒の間があった。
この時間ならば居るのではないかと考えて正解だった。
「…入るぞ」
拒絶の言葉が無いのを確かめて、エメラルドは取っ手に手をかける。
軽い音を立てて扉が開いた。
真っ暗な部屋を照らしていたのは、大きな窓から入る月明かり。
ぼんやりとした白い光に彩られた後ろ向きの立ち姿が告げてくる。
「電気はつけるなよ?月が綺麗なんだ」
エメラルドはアンバーの横に立ち、開け放たれた窓から空を見上げた。
漆黒の空に、ぽっかりと穴の空いたような満月。
「本当であるな」
「で、何の用だ?」
アンバーは空を見たまま尋ねてきた。
「少し、話がしたかったのだ。……ルビーのことなど」
「……適当に座れよ」
言葉に従って壁際に腰を下ろすエメラルド。
ふと窓から身を乗り出して、気持ち良さそうに夜風に吹かれるアンバーがそのまま飛び出してしまいそうに見えて、目が離せなかった。
引き込まれそうな満月は、美しさと、魅入られてしまえば戻って来られぬような恐ろしさを兼ね添えている。
「ルビーは“グリート”の長の森へ行ったのではないかという話が出ておる」
「…だろうな。俺もルビーが居なくなったって聞いたときにそう思った」
「ジェムは、“グリート”の長からの連絡を待つと言っておったが…」
唐突にアンバーが振り向いて窓枠に座り、エメラルドは言葉を止めた。
逆光の姿からは表情を読みとることが出来ない。
「あいつが行きそうな所、そこぐらいだからな」
いつもと変わらぬ口調のアンバー。
しかしその見えない表情は、笑ってはいないような気がする。
「迎えに行ってやらないと」
「うむ。このままという訳にもいくまい」
「……行くのは俺だ。あいつと約束したんだから」
ややあって、アンバーが呟く。
しかし体調の優れない彼を“グリート”の森へ行かせることなど誰が認めるだろうか。
だが、それだけではなく、その言い方はまるで――
「お主、よもや独りで行こうと思うておるのではあるまいな」
「…独り、って訳じゃない」
少し俯いて告げられた言葉が指すのは誰なのか。
悟って、エメラルドは表情を厳しくする。
「ジェイドと二人、か」
「……」
沈黙は肯定。
「アンバー、我はお主とジェイドが別個の人間だと思うておる。しかしこの場合、それでは何の意味も為さぬ」
「本当はあいつも巻き込みたく無い…でも仕方ないんだ」
「そのような無謀な行為、認められる訳がなかろう」
「お前にとやかく言われる筋合いは無いだろ」
乾いた笑い混じりの拒絶。
「――我個人の意見ではない!」
むきになって言い返して、エメラルドはそんな自分自身に驚く。
ざわざわとした気持ちの悪さが続くのは、欠けるところの無い満ちた月のせいか。
「…誰しも同じことを言うであろう」
ジェミニゼルもそう、彼もまた躍起になっても止めようとする筈だ。
アンバーの見えない視線が、自分を見ている気がした。
彼はすっと顔を上げると立ち上がり、前を通り過ぎる。
「何処へ行く?」
「外」
窓も閉めず戸もそのままで、アンバーは部屋を出ていこうとする。
エメラルドは慌てて後を追った。