10・シグナル-2

音もなく扉が開く。
刀を抜きかけたエメラルドは、それがパオだと気づいて安堵の息をもらす。
ただ、パオがこんなにも慌てた様子で、しかも扉から姿を現したのは初めてだった。
「パオ、どうした?」
宥めるようにジェミニゼルが尋ねる。
彼もまた武器を手にしていた。
戦時、共に戦ってきた槍。
パオは一礼して入室すると、気を落ち着けるようにジェミニゼルと向き合った。
「王を殺すと、侵入者が言った」
ジェミニゼルとエメラルドが言葉を失う。
ルビーは泣き出しそうに顔をゆがめた。
「銀の長髪、紅の目、黒い外套」
いくぶんか調子を取り戻したようで、パオは淡々と告げる。
それと対照的に、ジェミニゼルが槍を取り落としそうになる程驚いたのにエメラルドは気づいた。
「…尖った耳」
言って、パオは王の様子を窺う。
その侵入者が“魔王”だと気づいたエメラルドも同様に。
“魔王”の報告をしたときにもジェミニゼルが少なからず驚いていたことは解っていた。
ただ、問うことはしなかった。それが妥当だと思ったのだ、その時は。
「ジェム」
今は状況が違う。差し迫ったこの事態を解決するためにも、エメラルドは尋ねた。
「…知己の者なのか?」
「……それがディアだとしたら」
肯定するその言葉は諦めに似て。
「ディア・ドール…そう名乗った」
パオは一拍おいて答えた。
「やはり“魔王”は我等に仇なす者であったのか…」
続けて、苦々しく呟くエメラルド。その手は刀をきつく握っていた。
「ラルド、違う…ディアは私の恩人だ」
驚いた二人が彼を見るが、続く言葉は無い。
「では、何故…」
「王、逃げて」
片言ではないが、精一杯の言葉。
パオは腰の後ろから、結わえてあった小刀を抜いた。
「くい止める」
「そういう訳にはいかないだろう?」
変に落ちついた様子で、ジェミニゼルは首を横に振る。
「そうしない、と言うよりはそう出来ない。ディアが私を殺すと言うのなら…私は死ぬ」
「…ジェム、それは我やこの城…ジェムを守る者への侮辱か?」
少々癪に障ったようで、エメラルドは顰め面をする。
パオは目線を下に逸らした。どれだけ強がっても、不本意ながら、ジェミニゼルが言った通りになりそうな予感がするのが怖かった。
「…違う、そうじゃないんだ。ディアだから……彼は特別、“人間”ではない」

「退きなさい!」
――そう、エラズルは命じた。
反射的に、寧ろほとんど直感的に二人は退く。
刹那の前、彼等の居た場所でせめぎ合う魔術。
間一髪で直撃を逃れたロードナイトは愕然とした。
ディアの魔術に全く気づけなかったのだ。それを放とうとする魔力の動きすら。
何故そうなったのか?その答えは明確であるが故に認め難い。
相手は、自分よりも遥かに戦闘力に長けている。
「そうまでして防ぐ必要は無い…阻む者を殺せ、とは命じられていない」
それはエラズルに向けられた言葉らしい。
言い終わるか否か、エラズルは二撃目の魔術を放つ。
相手は加減したと言いたかったのだろう。言われずとも解っていた。だからこそ腹立たしかった。
ディアは避ける動作をしなかったが、エラズルの魔術は彼に届かなかった。
それも予想できてはいた。
「お前、また…!!」
更に続けて魔術を放とうとするエラズルに、アンバーが叫ぶ。
「倒れる、と言いたいんですか?だから何だと言うんです」
エラズルはアンバーを見ずに、ディアから目を逸らさなかった。
紡ぐ言葉は、自分でも馬鹿げているとしか言いようの無いもの。
「正直に答えなさい、ディア・ドール……あなたは“エルフ”ですね」
あまりに非現実的だが、初めて会った時からその考えは頭にあった。
アンバーとロードナイトは、半ば肯定気味にその種族の名前を聞いていた。
種族、と呼ぶのは正しくないかもしれない。
“エルフ”は“人間”ではない。
ディアとエラズルの間の差異は、例えば“リスティ”と“ヴェルファ”の違いではなく、“人間”と“グリート”の違いなのだ。
「“人間”はそう呼ぶ」
疑いようのない肯定が返ってきた。
逃げずにそこに立っていられるのが自分で不思議な程だった。
エラズルは、隠しきれない小刻みな震えを自覚する。強気に出ても、それは虚勢にしかなり得ない。
“エルフ”――“人間”の姿をした“人間”ならざる存在。
老いを知らぬ不死の者。自然を操る者。
立証しようのない、本の中だけの特徴が頭を巡った。
知識があるばかりに、余計に焦燥が増す。エラズルは動けずにいた。
気を落ち着けようと必死に努める。それは半分意地だった。
ディアがそうするつもりなら、認めたくはないが自分はとっくに死んでいる。
アンバーやロードナイトは勿論、ジェミニゼルもだ。
そうしない、彼の目的は――――
「…あなたの主とは、シャルトー・トリアルですか?」
「ああ、そうだ」
ひとつの仮説が確信に変わった。エラズルは視線はそのままに告げる。
「――アンバー、シャルトー・トリアルを倒して下さい」
「…は?」
ディアは静かに、エラズルを見返していた。
「僕達ではどう足掻いても彼には勝てません。だから、そうして下さい」
エラズルが魔術で造り出したのは飛竜。かつて南方へ出向いた時の鳥よりは速いことが予想出来る。
「その主が居なくなれば、あなたが王を殺す必要も無くなるのでしょう?」
「そうなる」
アンバーとロードナイトも、ディアの意図に勘づいたようだ。
「エラズル、その飛竜上に上げとけ。もう一人連れてく…窓から飛び乗るから」
エラズルが頷くと、飛竜はディアの真横を抜けて外へ飛び出た。ディアは手出しをしなかった。
アンバーは階段を駆け上がる。
入れ違いに降りてきたのはサファイア。
彼女はエラズルのやや後方に控える。ロードナイトも同じようにした。
「…ディア・ドール……あなたの望みは?」
答えは解りきっていた。それはほとんど駄目押しのような問いで。
「命ぜられたのは、“ジェミニゼルを殺す”こと。それ以外は私の意思によるのが救いだ」
真っ直ぐにディアを見て、エラズルは答えを聞いた。
「私を、止めて欲しい」
気分が悪くなる程の焦りと恐怖の中、思考だけは不思議と冷静だった。
「ロードナイト、サファイア…サポートをお願いします」
彼の小声に二人は頷く。この場でディアと渡り合えそうな者は、城内で最も魔術に長ける彼以外にあり得なかった。
「あなたをこの先には進ませません、ディア・ドール」
言い放つエラズルの声が、響く。
余裕など無い。ただ、必死だった。

“指揮官”――それが、アンバー・ラルジァリィに与えられた称号。
無論、役職の名ではない。
幼い頃から年の近い、あるいはやや上の者などとどこそこで小喧嘩を繰り広げていた彼は、意図せず戦局を見通す力を培ってきた。
相手の人数、得手とする戦術――そして、自分側の戦力。
その兼ね合いから戦法を決定し、周囲から“無敗のガキ大将”と称せられた彼は、後の戦時に傭兵として十二分の力を発揮していた。
傭兵内での評価も高かった彼だが、その功績があまり知られていないのは、彼自身がそのことに触れないからだろう。
陰に身を隠して人へ指示を出すよりも、自らが戦うことを望んだからこそ。
そして、そんなアンバーから見ても今回の状況は危ういことこの上なかった。
解っているのは、相手の戦力がいかほどか“解らない”こと。
そして、勝利条件。
“相手の指揮官を倒す”。
出来るだけ早く、最低人数で――適任者は一人しかいない。
「――パオ、来い!」
アンバーは、王の部屋の扉を開け放った。