9・君へのオマージュ-2


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「――もう大丈夫なのか?無理してないか?」
出迎えてきたランドリューに、エラズルは短く答えた。
彼は、エラズルを招き入れる。
ラピスラズリは出かけているのか、姿が見えない。子供達の声が聞こえてくる。
“合成獣”が破壊した広間の窓は付け替えられていた。
割れたガラスはすっかり片付いていて、二日前の名残は何も無い。
「本、取りにきたのか?」
「ええ。“合成獣”討伐は近衛の二人の仕事、書物を城へ持ち帰るのは僕の仕事ですから」
「明日、帰るんだったか…まあ、ゆっくりしていけ」
「いえ、僕は…」
「ああ、この前は本当に悪かった。“合成獣”が出たときに出かけていて…うちの奴等を守ってくれたんだよな、ありがとう」
エラズルに何も言わせずに、ランドリューは続ける。
「その“合成獣”のことで話があるんだ。いいか?」
「…どうぞ」
エラズルは、洋卓を挟んでランドリューと向き合う。
彼は躊躇いもなく切り出した。
「“合成獣”を見かけたんで、城に連絡したのは俺だ。…ってのも、その1か月前に研究資料が盗まれて」
「研究資料…生活に役立つ草花の実験と“合成獣”に何の関係があるんですか?」
冷ややかに言い放った彼に、ランドリューは申し訳なさそうにした。
「それじゃなくて、俺が研究施設から逃げた時に持ち出した資料…生物学の、資料だ。俺が居たのは研究ブロックだったから」
「そんなものも持ってきていたんですか?」
「…まさか施設を襲撃したのが現陛下だなんて思ってなかったからな。そこらの奴に悪用される訳にもいかないだろ」
「……確かに、妥当ですね」
真剣な面持ちでランドリューは頷く。
「それが盗まれた。関係無い訳がない。……家に現れたのは俺が見た“合成獣”とは違っていたらしいが…」
「心当たりは?」
「……元、南方領主の騎士で、今はその邸宅の主…そいつが怪しいとは思う。名前は…」
「シャルトー・トリアル?」
「ああ、そんな名前だ。施設を出た時に、鎮圧に出てきてた奴に出くわした…まあ、思いっきり逃げたんだけどな。俺が資料を持ってそうだと解るのは奴ぐらいだ」
エラズルは深く溜息をついた。
シャルトー・トリアルの良い噂など聞いたことがない。
戦時に南方領主が失脚した後、事実上その位置についた男だが、その手引きをしたのではないかという話まで聞く。
「何にせよ、城に戻ってからも注意したほうがいい」
そうですね、とエラズルは重々しく肯定したが。
「…しかし、それを盗まれると言うのは責任問題ですね」
責めておくのも忘れなかった。
ランドリューは苦笑する。
「厳重保管してあったんだがな……それはおいといて、ラズ、城は楽しいか?」
「………何なんですか?」
この重要な話題から飛ぶにはあまりに突飛な問い。
一転して父親のような顔つきで見てくるランドリューに、居心地の悪さを感じる。
エラズルは眉をひそめた。
「やっぱりアレか?何かからかわれたりするのか?そいつらシメに行こうか?」
「その必要はありませんが」
「冗談だよ。ラズが大事にされてるのなんて見て解る」
その言葉に反発するように、エラズルは挑戦的な目を向ける。
「…だとしたらそれは、僕がまだ使える“道具”だからでしょう」
「ラズ…!!んな悲しいこと言うなよ!!誰かにそうやって言われたのか?かなり本気でそいつ潰しに行ってやるよ?」
「言うまでもありませんよ。造られた僕が“道具”でなくて何だというんですか」
「“人間”だろ」
間をあけずにランドリューは断言した。
「生まれがどうとか。関わってた俺が言うのも…いや、関わってたからこそ言っとく。関係ない。むしろ、誰よりも幸せになってやれ。それだけの能力は持っただろ?自分の為に使いまくればいい。邪魔する奴は放っとけ、っていうか蹴落とせ」
「そんなことは客観的にだから言えるんですよ」
責めるような眼鏡越しの双眸がランドリューを睨む。
触れられるのを拒む眼差し。
それ以上の言葉を許さない。
「―――僕は、っ」
僅かに声を荒げたエラズルは、だが、言葉を呑み込んだ。
「……書物を頂きに参りました。持っていっても宜しいでしょうか?」
「…ああ」
一礼して、エラズルは足早に広間を出る。
書物のあった部屋には、持ち帰るものがまとめてあった。
手にして、玄関から出る。
「あ、ラ…ズ?」
丁度帰ってきたらしいラピスラズリとミーシャがそこに居た。
一瞥して、エラズルは歩みを早める。
「今のはエラズルさん、ですよね…?」
黙ったままのラピスラズリに、ミーシャが声をかけた。
断じて彼は、手に持っているファリア宛の土産をエラズルに渡せなかったことを気に病んでいるのではない。
「本、取りに来てたみたいだね」
笑って返して、ラピスラズリは家へ入る。ミーシャもそれに続いて、扉が閉まった。
「…ラピス?」
靴を脱いで上がったミーシャは、扉にもたれてかがむ彼に気づいた。
「ねえ、ミーシャ……何でラズ、あんな顔するのかな…」
顔を伏せたラピスラズリの表情は見えない。
「会いたがってたのって俺のほうだけだったのかな、やっぱり…会うたびに辛そうな顔するし、今なんて泣きそうだったよ?」
「…そんな、こと……無いと思う」
確信こそ無かったが、ミーシャはそう口にした。
エラズルの表情に見える暗いものは、戸惑いであったように感じたから。
「なん、だろう……」
微かな作り笑顔で顔を上げるラピスラズリ。
「悲しい、じゃないや……なんか、俺も、苦しい」
それが体の痛みではないのは明らかだった。
何かが。
苦しくて、切ない。
ラピスラズリの頬を涙が伝うのを、ミーシャは静かに見ていた。

宿に戻るなり、エラズルは眠った。
かつて無かったことだが、思考すら煩わしかった。
一時意識を手放せば全ておさまるような気がしたが。
生物学の複雑な数式よりも難解な事柄。
考えすぎて、吐き気がした。