9・君へのオマージュ

彼女は事態が飲み込めぬようだった。
だが、最もその場を理解しているのも彼女に他ならなかった。
「エメラルド、エラズル…?」
ジェイド・アンティゼノの声は、疑問とともに恐れも含んでいるようだった。
彼女の琥珀色の瞳が、姿を消した相棒の髪の色と重なったようにエメラルドには見えた。
ジェイドは手に握っていた紙を広げ、見た。納得したように嘆息する。
「無責任な…エラズル、何があった?この冷たさは尋常ではないな」
「ジェイド、そやつは今話せぬ。もとより体調も優れぬ状態で、本来ならば使わぬような強力な魔術を多用した故…身体の機能が一時的に低下しておる、とラピスが言っておった」
「ああ、そうか…見たところあなたたち二人は相当無理をしたようだ」
言って、ジェイドはエラズルを抱えなおした。静かに微笑んで、エメラルドにその紙を見せる。
それは手紙だった。殴り書きの、短い手紙。
「『説明よろしく、この阿呆頼む』……ジェイド、何事か問うても良いだろうか」
急いで書いたようだったが、それは確かにアンバーの字だった。エメラルドは答えを待つ。
「説明は難しいが……“イルゼム”という種族を知っているか?」
「……解らぬ。エラズルならば知っておるかもしれぬが」
エラズルは目だけでジェイドを見上げた。彼女は続ける。
「知らない方が普通だ。種族を専門に扱う本でも読まない限り知ることも会うこともないはずだから…“イルゼム”は、種族外に出ようとしない」
「主も、その…“イルゼム”だというのか?」
「そう。“二つの顔を持つ種族”と、表現されることが多いみたいだ。私とアンバーは“イルゼム”で、“ヒュースト”ではない」
エメラルドはただ、彼女を見ていた。
淡々と話す表情は変わらない。
「“イルゼム”は生まれた時から二つの性を持っていて、個々に差はあるが2、3日でそれが入れ替わる。体が替わると髪と目の色も入れ替わるんだ。大抵、10代の半ばを過ぎるとどちらかの性に固定されて、瞳の色が片方ずつになる。……私達は、見ての通りだ」
ふと、エラズルの何か言いたそうな目線に気づく。
「…我とエラズルの問いが同じとは限らぬが、それはひとりの人間が二つの性を持つということか?」
「そうだ」
次の言葉は言い難く。
それでも、聞かなければならないような気がして。
言葉を待つジェイドを真っ直ぐに見据えて、エメラルドは尋ねた。
「……では、主等は…主は?…我を謀っておったのか?」
疑問と非難と少しの悲しみと。
そんな問いに聞こえた。
ジェイドは目を伏せる。
「我には……主とアンバーが同じとは到底思えぬ…」
「私達は、異端者だ」
「…異端?」
エメラルドは、自嘲のこもった響きのその言葉を繰り返した。
「他の“イルゼム”はひとつの人格が二つの性を持つ。だが、私とあいつは完全に独立している……変異体、とでも言うのか」
「……」
「体が変わるごとに意識も変わる…あいつの行動は、私には解らない」
ジェイドは手紙を眺めた。
「これが、私達の会話手段だ」
「…何と言って良いか解らぬ……」
困惑した表情でうめき、エメラルドは髪を掻き上げる。
どう解釈するべきか。いや、彼女の話した通りなのだろう。
何よりも事実の意外さが先に立ち、頭の整理が追いつかないというのが正直なところだった。
「そんなものだ。私は…私は私で、あいつはあいつだと思っている。どちらかが本物だとか、二重人格なのだとは思えない。…ただ、あなたがどう取るかは任せる」
ジェイドはエラズルの髪を撫でた。
されるままに彼は黙っていた。何もしようが無かったとも言えるが。
「本当に冷たいな…長々と話してしまった。眠ったほうがいい」
エラズルが目をとじたのを見て、ジェイドは傍らにあった毛布を体にかけた。
「ジェイド」
エメラルドが呼びかける。
「うん?」
「……我は、主もアンバーも、同じくジェムに仕える身……仲間、と思っておる」
少しの時間がかかって紡ぎだした言葉。
彼女は目をしばたかせたが、女性らしく、くすりと笑った。
「ありがとう、エメラルド」


******



次に目を開いたとき、部屋に光が射していた。
曖昧な視界で、だが、眩しさに目を細める。
体にかかっていた毛布をそっとどける手は、重かったが動いた。安堵に吐息をもらす。
エラズルは、まだ眠っているらしいジェイドから離れた。足元はおぼつかない。
昨夜見たことは真実らしい。現に、そこに居るのは彼女。
彼は眼鏡を探した。それは電灯近くの机にすぐに見つけられた。
視界が明瞭になるかわりに、色が消える。
「お早う」
呼ばれて振り向く。壁に寄りかかっていたエメラルドがこちらを見ていた。
「…お早うございます」
掠れたようではあったが、声は出た。
「大分良くなったようではあるな」
「ええ…あなたは大丈夫ですか?」
「我か?」
「支えて頂いた僕が言うことではありませんが、下手をすれば骨が折れるところでしょう」
「案ずるでない。相手の方も加減をしておったようだ」
「僕の過失です。申し訳ありませんでした」
エメラルドは、素直な謝罪に首を横に振る。体はまだ少し痛むが、気にする程でもない。
酷く小さなエラズルの声を聞き取ろうと、注意深く耳を傾ける。
「…“合成獣”はどうなりました?」
「逃げられた。逃がされた、というべきか。そもそもあの“合成獣”は我とアンバーが討伐すべきだったものとは異なる種であったようだ。深追いは出来ぬ」
「放置するんですか?」
「致し方あるまい。気配ごと消えてしまったのだ。主の調子が戻り次第、城に戻るべきである」
「そうですか……あの時の男に見覚えは?」
「…魔王」
小声になった。意図したのではないが。
「そう呼ばれているようだ。南方で見かけられていた…銀髪に紅い眼、それ以外は解らぬ」
「では、“リスティ”ではありませんね…“リスティ”の瞳は金か銀ですから。…あの時確かに、魔術を使用していましたが」
「主こそ心当たりはあらぬか?」
「……いえ…」
エラズルは思い当たる節を自分で否定したようだった。特に尋ねようともせず、エメラルドは溜息をついた。
「さて、どうしたものかな」

防具を身につけず、剣を持たず、不本意ながらもジェイドはスカート姿だった。
アンバーの服のまま歩く訳にもいかず、エメラルドがおおよそのサイズで買いに出たものだ。
城内に彼女がそのような姿で居ることはなかったが、白のロングスカートは不思議と似合っている。
ジェイドは女性としては長身だが、違和感は無い。むしろ凛とした雰囲気を引き立ててさえいる。
「長閑で、良い所だ」
笑って言ったのは、剣士でも騎士でもない、ジェイド・アンティゼノという女性だった。
「我も同じことを思うた」
エメラルドが答える。
宿屋の中庭に、他に人は居なかった。
村の中に人が出始めたような時間帯だろう。畑などではもっと早くから働いている者もいるかもしれない。
朝の空気はどこか冷たく、夏の終わりを感じさせる。
「…やはり、里を連想させる所だ」
「あなたの故郷のことか?」
「うむ。人はここよりも多いがな。このように自然の中に在る所など、似ている箇所があるのだ」
「そうか……一度、訪れてみたいな」
「里をか?」
「そう。私は…色々な場所へ行って、様々な物を見たいと思うことがある。この体では、そう遠くへは行けないから」
「そうか」
数匹の観賞魚が溜池を泳いでいた。
澄んだ水面を眺め、ジェイドはそのほとりに腰を下ろした。
「私は二日間の休みを貰ったと思って良いのかな」
「良いのではないか?こちらに来たのはアンバーなのだから、その姿では城に戻れぬだろう。皆に気づかれてしまう」
「…ああ。この前ロードには気づかれてしまったが」
「ロードナイトにか」
「私も、あいつ同様に二日おきの勤務だったから…ロードは、どこかであいつも二日おきだと聞いたらしい。問いただしてきた。気づかれないように陛下に役職を離してもらっていたんだが」
エメラルドは少し黙った。
思い返すと、凄まじく思い当たる節がある。
「…エメラルド、どうかしたか?」
不意に静かになった彼を訝しく思ったのか、ジェイドが声をかけた。
「うむ、すまぬ、それは我だ」
「え?」
「何も知らずにロードナイトに話してしまった」
真剣なエメラルド。ジェイドは失笑する。
「……むう」
「いや、気にしなくていい。いつまでも隠し通せるとは思っていなかったし……リアには、話していないけど」
「何故黙っておったのだ?不都合も多かろうに」
彼女は答えずに、宿からの出入り口を見た。
おずおずと戸を開けてきたのはエラズル。
「平気か?」
「…少し、外の空気が吸いたくて」
「そうか。こっちに来るといい」
エラズルはしばし二人を見つめていたが、遅い足取りで進んできた。
ジェイドに促されて、彼女の隣に座る。
「何を話していたんですか?」
「どうして私達が種族のことを黙っていたかについて、だ……聞きたいか?」
「少し」
弱い肯定。
ジェイドは視線をおとして、口を開いた。
「私が私で、そしてあいつがあいつでいるためだ」
静かな口調に二人は聞き入る。
「私達の住んでいた所では、普通なら私達のようなものはあり得ない。だから私達は常にひとりとして見られていた。親は早くに亡くしてしまったから、私達は村落の長に育ててもらっていた…どうやって“二重人格”をなおすか、周囲の者は常に考えていたようだ」
エラズルは、ジェイドから目を離せずにいた。
――自分とは、いや、自分達とは正反対だと思った。
「私は他の者の話を通じてあいつを見ていた。今日は森で、次の日は広場で、大騒ぎしたとか喧嘩したとかそんな話ばかりだったけど…羨ましかった。私は他者と関わりたがらない性格だと思われていたようだから…何故かな」
苦笑するジェイドの横顔が、まるで別人のようにエメラルドの目には映った。
それだけ物憂く、女性らしい。
「長達が選んだのは私のほうだった。言うなればあいつは問題児で、私は模範的な人間だったから…そんなものは上辺だけなのに。私達の性別は10代半ばを過ぎても固定されずに…それもまた異常なことで、長達は解決策を思案した」
エメラルドは芝生に腰を下ろした。
立ったまま聞いて良いような話ではない。
「…“イルゼム”の性別を決定する最も手っ取り早い方法は、誰かを愛すること。……平たく言えば、誰かと関係を持ってしまえばいい。19…のときか。あいつから私に変わった夜中、男がそこに居たんだ。何事かは悟った……許せなかったのは、それが」
ジェイドは苦々しく唇を噛んだ。
「……それが、あいつの親友だったことだ!……それは、変わる直前まで話をしていたということで……何だろう、頭に血がのぼって…蹴り飛ばして剣を突きつけたのは覚えている」
思い出すだけで気分が悪くなる。
その時気が付いた自分は泣いていた。
――それは、彼の涙。
「……だから。そうやってどちらかを選ばれるのが嫌だから……」
言葉が出てこない。エメラルドもエラズルも黙っていた。
彼女にとっても衝撃だったろう。
だが、彼は?
それはアンバーに対する最大の裏切りではないだろうか。
彼はどんな思いで相手を見つめていたのか。
全て否定されて、どんなふうに。
エラズルは、ただジェイドを見ていた。
正反対だと思った。そして、良く似ている、とも。
首元にある何かを掴む。
尋ねたいことがあるのだが、言い出すきっかけがつかめない。
「…エメラルド、昨日…私とアンバーを仲間だと言ってくれたのは、本当に嬉しかった」
照れ笑いが、少しだけ悲しかった。
「さて、戻ろうか?特にエラズル、長居は体に障るだろうし」
ジェイドはすっと立ち上がって、先導して歩く。
宿屋の裏口の戸を開けて――振り向いた。
視線の先のエラズルが、それに気づいて一歩引く。
「――――ラズっ!!」
泣きそうな顔で立っていたラピスラズリとランドリューが同時に抱きついてきた。
「――――!!」
よけられるはずもなく。
「…エラズルは、愛されておるなあ」
軽い気持ちで呟いたエメラルドは、エラズルの表情が曇ったのに気づかなかった。

その日は宿内で過ごした。
日が暮れ、夜が明ける。