8・タイムリミット

存在する色は、全て光の波長や強弱で定まる虚仮。
それを“有”とするのはあまりに不確かだから、“無い”ことは問題にもならない。
空に色は無く、海の色は透明で。
解りきった事実に疑問を持つのは愚かだ、と。
理解しているのに、気持ちの悪さが消えない。
……違う。
本当は。
僕はずっと前から苦しい。
救いが欲しくて、でもそれは認めたくなくて。
だから、言えない。
誰にも――――言わない。


「何かすごく久々に仕事する感じだな」
アンバー・ラルジァリィは城門前に立っていた。
手にした長細い袋の中身は、普段の棒ではなく、刃の付いたオール。
「書物整理が長かったからの」
腰に刀を下げ、エメラルドもそこに居る。
近衛騎士である彼等が城外での仕事をともにするのは、稀どころか初めてだった。
「いや、実際まだ終わってねえんだよ…これから増えるし」
心底嫌そうにアンバーは呻く。彼にしてみると、本を取りに行くなどという仕事は面倒意外の何者でもないのだろう。溜息も混じる。
「不満なら、来て頂かなくても結構ですよ」
彼こそ不本意そうに、魔術で構成された巨鳥を従えてエラズルが門をくぐってきた。
耳を隠して束ねた髪に、眼鏡。変わったような所は一つも無い。
「い、い、え。ジェム直々に頼まれてるんで行かせてもらいますよ」
わざとらしくアンバーが返した。エラズルは大した反応も見せずに告げる。
「では、速やかに乗ってはどうです?下らない談話は時間の無駄です」
――――巨鳥が、羽ばたく。

その村落は、北方を森、南方に海と崖を構えている。
ウィルベルグ領土内で最南端に位置するそこに、名は無い。
10かそこらの家庭が生活する、辺鄙で長閑な場所。
王宮からの遣い三名がそこへ降り立ったとき、空は夕焼けだった。
「予想以上の田舎だな。…ま、こういう所は嫌いじゃねえけど」
「“ヴェルファ”の里よりも生活は城に近いようであるが、規模は里が優っておるな」
アンバーとエメラルドが、各々の感想を口にする。
魔術で形作られた鳥は、空気へ溶けるように消えた。
「…書物の寄贈を申し出てくださった家は……」
エラズルは見回して、一軒に目を止めた。聞かされていた外観と酷似している。
「ああ、あれだな」
同意して、アンバーも見た。
村内では最も大きい建物のようだ。裏手は庭になっていて広く、子供が登れる高さの木が植えられている。
エラズルが、その扉を叩いた。木製の扉は軽く、暖かい音をたてる。
誰かが走ってくる音がして、扉が開いた――
「ラズっ!!」
開くや否や、内からの手がエラズルを抱き寄せる。
唖然として、エラズルの後ろの二人は立ちつくした。
「ちゃんと来てくれたんだ!?すっごい嬉しい!!」
出てきたラピスラズリは満面の笑みだった。
一番呆気にとられたのは、当のエラズル。
「…でもラズ、お前身体冷たいよ?無理は禁物!」
言いたいことを述べてから、ラピスラズリはエラズルを離して後ろに挨拶する。
「ラルドさん、お久しぶりです。お元気でしたか?」
「うむ。そちらも息災で何よりだ。…ああ、こやつがアンバー・ラルジァリィ、もう一人の近衛騎士だ」
「こんにちは、むしろこんばんは、アンバーさん。お名前はラルドさんから聞いてました。ラピスラズリ・ティミューシュです」
「悪い、笑っていいか?お前等顔似すぎ、んで、性格似なさすぎ」
「俺もそう思ったりなんかして」
アンバーとラピスラズリの笑い声が重なった。エメラルドも何となく笑ってみた。
「すみませんが」
それを止めるように、割って入った無感情な声。
ぴたりと笑いを止めて、三人はエラズルへ顔を向ける。
「僕達は書物を受け取りに来たんです。早急に案内して頂けますか?」
「あー…もっと遅くなると思ってたから、まだ分別し終わってないんだよね。折角来たんだからゆっくりしていきなよ、ラズ」
「――そんな暇は…」
「あるんだよな。“グリート”討伐も目的だから」
アンバーが口を挟んだ。ラピスラズリは嬉々として続ける。
「じゃ、上がってください!父さんがまだ戻ってきてないので、おもてなしは出来ないんですけど」
彼は家に入っていった。アンバーとエメラルドはまだ、エラズルを見ている。
「……あなたがた、ここへ何をしに来たと思っているんですか?立場に責任を持って、無駄な行動は慎んで下さい」
苦々しく言い放って、エラズルは思い足を動かした。
「…あー、今の顔はあれだな」
「謀りおってこの馬鹿めが、と、目が語っておったな」
「いや、ラピスラズリの家が目的地だってのは確かに知ってたけど」
「…エラズルには伝えぬと決めたのは他でもない、ジェムであるのだが」
「ま、気づいてるだろうけど…」
溜息をついたのは、先が思いやられるからで。
「…“グリート”の正体聞いたら、あいつ切れるかもな」
アンバーは冗談混じりに呟いたが、ラピスラズリが城に来た日を鮮明に覚えているエメラルドは否定しなかった。

窓の近くに夕焼け色の日溜まりが出来ている。そこは広間だった。
家に足を踏み入れた瞬間から聞こえていた、楽しそうな笑い声の正体がそこで転げ回っている。
10歳にさしかかろうか、という年齢の少年が二人、床で取っ組み合っていた。
その一人の右手は獣の手で、もう一人の足は鱗で覆われている。
傍らで、本を片手に少女が二人を見ていた。年は同じぐらいの、黒髪の少女だ。
彼女には柔らかな尾があった。三人に共通しているのは、銀の瞳と長く尖った耳。
エラズルは、不快感を顕わにラピスラズリを見る。
ラピスラズリがその視線に気づかないように、アンバーが声をかけた。
「全員“リランナ”なのか?」
「そうなんですよ。血が繋がってる訳じゃないんですけど、みんな俺の家族です」
ラピスラズリが微笑む。その彼の足下に、子供達が集まってきた。
「ラピにいが、ふたりいるー」
尾のある少女がエラズルを見る。彼は目を逸らしただけで答えない。
「違う違う、別人だよ。彼はエラズル・ルーンベルク、僕の…」
続ける言葉に困ったようで、ラピスラズリは苦笑した。
「ほら、ちょっとだけ向こうで遊んでなさい」
子供達を広間から出して、彼は三人に座るよう促す。
駆けていく足音が遠のいて、笑い声に変わった。
「騒がしくてごめんなさい」
「いや全然。なあ?」
「うむ、案ずるでない。五人で暮らしておるのか?」
「はい、俺と父さんとあの三人です」
ラピスラズリは台所に行きながら答える。持ってきたのは紅茶。
「ねえラズ、リアは元気?」
「ええ」
無愛想に、エラズルは返事した。ラピスラズリの方は見ずに、やや伏せ目がちで。
アンバーはエメラルドを見やってから、小さく肩をすくめる。
「主の父君というのは…」
エメラルドの言葉を、騒音が掻き消した。
どさどさ、と、何かが高所から落ちる音だった。割れ物ではないが、重い物。
「――――ちょっとすみません!」
ラピスラズリは血相を変えて、広間を駆け出た。
音の大きさから言っても、子供が落ちたようにも聞こえたからだろう。
「……うわぁ」
しかし、聞こえてきたのは落胆と少しの歓喜が入り混じった声だった。
三人は後を追う。
ラピスラズリが立っていたのは暗い部屋の前で、書斎のようだった。
床に、分厚い本がぶちまけたように散乱している。
三人の子供達が、驚いた様子でラピスラズリと本を交互に見る。
「もう、また魔術で遊んでたでしょ。魔術で遊んじゃ駄目だって何度も言ってるのに」
「だってね、落ちちゃったの」
「ねー」
少年のひとりと少女が言う。もうひとりはしきりに頷いている。
「これじゃあ王宮に寄贈する本と完全に混ざっちゃって、ラズが帰れなくなっちゃうじゃないか」
「ラピにい、嬉しそうね」
少女は悪びれもなく微笑んだ。エラズルは誰も気付かないほど小さく溜息する。
そのとき扉が開く音がして、慌ただしく人が駆け込んできた。
「悪いラピス、大分遅くなった!」
エメラルドと並ぶほど、背の高い男だった。暗茶の髪は短く、藍色の目は優しい。
割合細めの身体だが、黒いジャケットが良く似合っている。
「本当遅いよ」
ラピスラズリが、彼の両手一杯の荷物を受け取ろうと進み出た。
「…うお!?お前等何やってたんだ?」
彼は子供達を見、部屋を見、そしてラピスラズリを見ながらアンバー達へ目をやった。
そこで、呆けたように一点を凝視する。
「父さん、いつまでそれ持、ッ!?」
近寄ってきたラピスラズリに荷物を全部押しつけて、男は三人の方へ駆け寄った。
「――――ラズ!!」
避ける間も無く、エラズルは抱き寄せられる。
もう呆気にとられることもなく、二人の近衛騎士は静かに見守った。
何とよく似た親子だろう、と。
「大きくなったな!かなり本気で会いたかったぞ?」
「ちょっ、と」
「ラピスも俺も、どれだけ会いたかったか解るか?こんなに髪伸ばしたりして可愛いなあ」
「あの」
「あー、何か頭良さげな顔しやがって。偉くなったなお前ー」
彼はエラズルの顔をじっと見ると、大仰に頭を撫でる。
「ふふ…父さん、エキサイトしすぎだよ」
ラピスラズリはにこやかに言ったが、手からは粘質の液体が滴り落ちていた。
「今の衝撃で卵割れたっぽいよ?」
「あーあ、ちゃんと加減しろよラピス」
「うわあ、そうくるか」
荷物を持って広間へ戻っていく彼を横目に、アンバーはノリの良い男に声をかけた。
「えー、ランドリュー・ティミューシュさん?」
「いかにも」
ジェミニゼルと同年代程度の男は、元研究員らしさなど微塵も見られない堂々とした態度で答えてくる。
「……こんばんは」
不覚にも気圧されて、アンバーは挨拶だけ述べた。