6・いもうと-3

浮かぬ顔だった。そうとしか形容出来ない。
エメラルドが立っていたのは珍しく屋上で、人の出入りは無いに等しい。
今日のように良い天気の日は遠くまで良く見える。
四方が見渡せた。流石に確認は出来ないが、南方の向こうは海で、その先はロゴート――パオの母国。
“ヴェルファ”の里があるような方向を眺めて、彼は独りごちた。
「わからぬよ…」
――何が?それすら解り難い。
鬱々とした気分の晴れぬまま、エメラルドは城内への階段に足を向ける。
階段へ続く戸に手をかけようとしたそのとき、戸が押し開かれた。
「――エメラルド?」
やや驚いたような声色で、ロードナイトは斜め前のエメラルドを見やる。
僅かに額と鼻頭に手を当て、顔色も変えずに彼は詫びた。
「…すまぬな、少々物思いをしていたようであるよ。扉も避けられぬとは」
「謝るのは私だ」
ロードナイトは、彼の相棒の“煩い奴”が居ないのを確認してから扉を閉めて屋上へ出る。
彼にとっては好ましい場所だった。見晴らしが良く、何より静かだ。
来るのは、気晴らしに上ってきた陛下や通りすがりのパオぐらいのものだった。
エメラルドが居るのは珍しい、と思いながら、ロードナイトは展望台への階段に足をかけた。
周囲より高くなっているだけで何もない展望台だが、ジェミニゼルは近いうちに望遠鏡でも取り付けようかと話していた。
「我は、主にもう一つ詫びねばならぬ」
「……?」
「我の妹子が、ユナ殿を煩わせてしまったようである」
足を止めたロードナイトは、階段に腰掛ける。
「大事は起こらなかったようだが、小太刀を振り回すなど…本来ならば、我は主に会わす顔などない」
「…調理器具を手にしていたあいつも同じようなものだ。気にすることはない」
「……しかしな」
エメラルドもその場に座った。変に距離のあるまま向かい合う。
「何故、我は忘れかけていたのか…そういう種族なのだ」
「“そういう”?」
「我等は“ヴェルファ”、半獣半人の種族である…狩りを行い、自然の中に生きる者。他種族との思考の差異が、恐らく最も大きいのだ。“ヴェルファ”は古来より、“グリート”も狩りの対象にあった」
彼の目は、自らの手を映した。
“外”の世界に触れる手は、幾度も血に濡れている。戦を勝ち抜いてきたジェミニゼルよりも、もっと。
「…半分、獣なのだ。“獣化”せずとも、我等は主等に仇為すやもしれぬ」
言葉にして初めて、気付くこともある。エメラルドは苦笑した。
簡単なことだ。物思いの正体は恐怖。
他者を傷つける恐怖、そしてそれによって変わるであろう他者の目への恐怖。
情けない、と自身を心中叱咤する。
「すまぬ、長くなったな…そういうことだ」
「…アンバー・ラルジァリィは?」
反射的にその名が出たのは、彼なら何か適切な言葉が出てくるのかもしれない、と思ったからか。
話は終わったようだから、放っておいてもいい。そうしなかったことに、ロードナイトは自問する。
「うん?あやつは今日は居らぬよ。元来、二日おきに勤めておるのでな」
「二日おき…?」
「うむ。明日は居るはずであるが…どうかしたか?」
「いや」
あからさまな疑惑を表したロードナイトだったが、何も言ってこないようだったので、エメラルドは告げた。
「…そうだ、主に話しておきたいことがある。我は今日、城下へ“銀髪の男”の情報を得に行ってきたのだが」
「…何か解ったか」
「“身も凍るような紅い双眸のリスティ”という説を多く聞いた。尖った耳であったようだ。髪は腰より長く、黒服で、“魔王”と呼ばれておるようだが」
ロードナイトは嫌悪の情を抱いたようだ。はっきり不快そうに、顔をしかめる。
「“魔王”という名の“リスティ”は存在しない。“悪魔”という黒翼の者は居るが、そもそも“リスティ”の目は金か銀だ」
「知っておる。城下の噂話だから」
「未だに、そういう心象があるとは解っていたが…」
そこで言葉を切って、ロードナイトはエメラルドを見据えた。
「お前は“ヴェルファ”が他と異なると言ったが、“リスティ”も同じだ。恐怖、嫌悪が向けられてきた目」
自然な動作で、彼は顔の覆面を外した。
「…私たちの目指すものは、無謀なことかもしれない」
そのまま城内へ戻れば、誰もが立ち止まるであろう、隠されていた美しい顔。
額にあるのは、静かな輝きをたたえる水晶。話した時に見えた口内の牙は、すぐに手が覆う。
“晶角狼”――額の水晶は、角であったのかもしれない。それは、解らないが。
「だが、いつか…叶うことを望む」
「我も、そう思う」
幾分か穏やかに、エメラルドは微笑んだ。
似ているかもしれない、と思ったのは、不本意ながら嬉しかった。

日中よりはましになった程度の暑い夜。月と星が煌めくのが綺麗に見えた。
その明かりが、地を照らす。
幻じみた神秘を纏う、白月。
微風もない。音のないその場所に、エメラルドはいた。
「…兄様、良い月夜にございますね」
アクアマリンはその傍らに居て、囁く。兄は頷いて、眺めていた。
怒っているのでも悲しんでいるのでもないようだが、気後れしたように彼女は続けて問うた。
「兄様、アクアは戻らねばなりませぬか?」
エメラルドは答えず、振り向きもせず、ただ目を閉じた。
許しを請うように、アクアマリンは言葉を待つ。
彼女を見ぬまま、エメラルドは呟いた。
「…居ればよかろう」
「――良いのですか?アクアを、お側に置いて下さるのですか?」
「主のことだ、出るときに家のことは他の者に頼んだであろう。先刻ジェムに許しはもらっておる」
「兄様…!!」
ぱっと頬を赤くして、彼女は座っているエメラルドに抱きついた。
ようやく、彼はアクアマリンを見て笑う。
「知らねばならぬことは多いぞ。里とは異なると、忘れてはならぬ」
「肝に銘じておきます、兄様」
エメラルドはまた、夜天を眺めた。アクアマリンの目も、そちらへ向く。
彼女は座っているエメラルドの膝元にもたれた。
兄の手が、優しく髪を撫でる。
「……のう、アクア、ここは暖かいな」
それは、独り言に近い大きさの声だった。
「我等“ヴェルファ”ですら受け入れてくれる」
「さようにございますね」
エメラルドは、そのまま座っていた。
降り注ぐ月光と、訪れる静寂。心地よい時間。
いつしかアクアマリンは眠りについていた。
彼女が持ってきた、母の毛皮をかけてやる。白い毛が、月光によく映えた。
「……我等は半分獣であるのに」
――同じように、接してくれる。
声に出さずに、続きを言う。
言葉にはし尽くせない喜びと感謝の気持ちは、どうすれば伝わるだろう。
物思いは増えてしまったが、それは全く別の、むしろ贅沢な悩み。
王と、此処に居る他の者と共に在ることを望む。
エメラルドは、すっと無表情に見上げた。

苦しさと愛しさが相俟う、残酷なほど暖かい居場所。

6・いもうと End