6・いもうと-2

パオ・ルーがその時庭を歩いていたのは全くの偶然だった。
最近は、暑い日が続いている。
もう数日も経てば、夏本番が訪れるだろう。
照る日射しが木々の葉に反射して、彼に当たる。
鬱陶しそうに目を細め、パオは木陰を目指した。
その時――まだ大分遠いだろうが――誰かが向かってくる気配と、微かな足音を感じ取った。
彼は身を隠そうとしたが何ともなしに思いとどまり、そちらを向く。
徐々に見えてきたのは女性――それも、見知った。
厨房で働くユナ・カイト。言葉を交わしたことはないが、数回見かけられた記憶があった。
彼女は鬼気迫っているのか心底楽しんでいるのか際どい表情で走っている。
何故、良く使い込まれたフライパンを手にしているのか、理由は皆目見当がつかない。
彼女はパオに気付いたようだ。
「パオさん、危ないですよ!」
何が、危ないのか――視界になかったそれの存在に、彼は瞬時に気付いた。
そこだけ風が吹いたように、自然な様子でやや前方の木が揺れる。
次の瞬間、弾丸のように飛び出てきた何か。
キィン…
高く鋭い、金属の擦れる音が短く響いた。
木から飛び降りてきたアクアマリンの小太刀を、パオの“針”が正確に受け止めた。
刹那、視線が向かい合う。
アクアマリンは軽く反動をつけて飛びすさり、見事に着地した。
――できる、とパオは即座に判断する。
かつて、城に来る前――故国で生業を同じくする者と見えた時にともすれば匹敵する、目の前の幼い子供。
視線を逸らさず、彼は動かなかった。
先にアクアマリンが口を開く。
「すばらしきお手前とお見受けします」
そちらこそ、とパオは目で返した。
「…“ヴェルファ”の虎として手合わせ願いたく思いますが、今は“おにごっこ”の最中故、失礼をば」
すっと目を逸らし、彼女はユナの方へ駆ける。
「そういうことなんですー!!」
と、少し前に通り過ぎていったユナが大声で言ってきた。
「………」
数秒見送り、背を向ける。
随分と激しい“おにごっこ”だな、と彼は思った。
互いに楽しんでいるように見えなくもなかったし、少女の腕は確かで――彼が止めたのは反射的にであり、別に彼女がユナや他の誰かに危害を加えようとしているのではなさそうだ。
とりあえず、パオはその場を後にした。

「ね、楽しかったねっ!」
買い物袋を誇らしげに下げ、ルビー・ラングデルドは歩いていた。
「うむ」
短く告げたエメラルド・ローレッツィは少し浮かぬ顔で、傍らを歩いている。
「お菓子、みんなで食べようね」
ルビーは彼の様子を気にも止めず、子供特有の即興鼻歌を始めた。
とりあえず、ひとつの仕事は終わったようだ。エメラルドは微笑む。
彼の今日の仕事は二つ。
ひとつは、城で遊ぶのに飽きてきたルビーを買い物に連れていってやること。
そしてもう一方は、南方に時折現れるという謎の男の情報収集。
城の者は、外部の噂話には疎くなりがちである。例外はあるにしろ。
何のことはない、南方の村を襲った“グリート”――法を守らない“人間”が居るように、和平に背く“グリート”も居るのであって――を、人間離れした鮮やかな動きで仕留めた男が居る、という噂が流れている。
さしたる問題も無さそうな話だが、“南方”というのが気にかかるところだった。
南方は戦前、生物学に関する研究施設の多くあった場所であり、今もなお、国政に反する者が少なからず存在する。
万一、ということでパオが調べにでていた。
そして今回、エメラルドが城下町まで出向くこととなったのだ。
それなりに収穫はあった。
「ねえ、その服また着る?」
唐突に立ち止まり、ルビーが尋ねる。
エメラルドはいつもの着物姿ではなく、おおに他者が着ているような服だった。
“ヴェルファ”の服は目立ちすぎる、とルビーが選んだものだ。
「主が望むなら着ても良いがな、どうも落ちつかぬよ」
「今度アンバーにも見せようね!」
あやつは笑い飛ばす、とエメラルドは瞬時に思った。
二人が城門を抜けたとき、そこにサファイアが立っていた。
「今戻ったぞ。何用か?」
「あ…うん、あのね」
言葉を濁した彼女は、エメラルドとルビーを交互に見る。
「話すがよい。何事か?」
「エメラルドの妹さんが今、ここに来てるんだけど…」
「うん?アクアが…?」
珍しく大仰に、エメラルドは驚いた。しかしその表情はすぐに懸念に変わる。
「……アクアが、何をしたのだ?」
「別に大したことじゃないし、誰も気になんてしていないっていうことだけは言っておくわ」
彼を見て、溜息をつくサファイア。
次のエメラルドの行動は変えようがなく、しかし話さない訳にもいかない。
「…トーティムとチェルを見て、“グリート”が侵入したと思って小太刀で斬りかかったところを、偶然庭に出ていた陛下が止めに入ったわ」
「――――ルビーを頼む!」
瞬時に血相を変え、狼さながらの俊足で、エメラルドは城へ駆ける。
サファイアは黙って見送った。ルビーがローブの袖を引く。
「ね、サフォー、トーティムとチェル、大丈夫?」
「ええ。怪我とかもしてないわ。エメラルドの妹さんも、トーティムとチェルが嫌いでやったんじゃないっていうのは解ってあげて?」
「うん!ねえ、アクアちゃん何歳?」
「11歳、って言ってたわよ」
そのルビーの表情を、走り去ったエメラルドに見せられたら、とサファイアは思う。
彼が、何を気にしていたのか。それは何となく解った。
「じゃあ、年が近いお友達になってもらうね!」
屈託のない笑顔と純粋な喜び。
走り出す前にエメラルドが見せた悲しい顔が頭から離れずに――サファイアは、ルビーの手を引いた。
「後で会いにいきましょうね」
種族間の確かな”壁”。
取り去ることは出来ずとも、崩すことは出来なくもない、と。
ルビーを見ながら、彼女は心中呟いた。

フライパン片手の“おにごっこ”の件で兄に小言を言われたユナは、応接間の扉を開けた。
「アクアちゃん、いる?」
「ユナ様ぁ…」
大粒の涙をこぼしながら、“ヴェルファ”の少女は振り向く。
駆け寄って頭を撫でたい衝動にかられながらも、ユナは控えめに近付いた。
アクアマリンは、きちんと着物を着込んでいた。
目に鮮やか、かつ重そうに映るそれは、あつらえたように彼女に似合っている。
「私、兄様に嫌われてしまいましたわ……」
「そんなこと、ないと思うけど…」
「…兄様が、あのように辛そうなお顔をなさるなんて……」
「でも、怒られた訳じゃないんだよね?」
「さようでございますが、しかし……」
彼女は止まる様子もなく涙を流し続けた。
「私は、兄様のお側に居たかっただけですのに、兄様に、あんな……悲しそうな…」
いたたまれなくなって、ユナは半ば強引に彼女を連れだした。
「ねっ、き・ば・ら・し、行こう!」
「ユ、ユナ様?」
アクアマリンは流れる涙を袖で拭って、手を引かれるままついていく。
「あのね、陛下もそうなんだけど、この城の人って割とキレイどころが多いんだよ」
「きれいどころ?」
困惑しきって、尋ねる。ユナが唐突に止まった。
「まずは一人目、侍従のブラッド君!性格や話し方が面白くて可愛いと実は人気!」
「何や?ユナちゃん」
出会い頭に紹介された彼は、嫌な顔ひとつせずに見つめてきた。
即座に頭を下げ、アクアマリンは挨拶する。勘の鋭いブラッドは何事か理解出来たらしく、微笑んだ。
「ああ、エメラルドさんの妹さんやな」
「そうそう。じゃ、またね、ブラッド君」
慌ただしく、ユナは冷蔵室へ急いだ――彼は、誰よりも素早いから。
「二人目っ!陛下の隠密さんのパオさん!」
冷蔵室へ繋がる戸を開け放ち、ユナは言った。
パオは、冷蔵室前の椅子――実は彼の為にあることを知るのはユナやジェミニゼルだけだろう――に座っていて、ユナ作の“アンニンドウフ”もとい“杏仁豆腐”を味わっているところだった。
二人の気配に気付いてはいた。逃げなかっただけで。
「先刻はどうも…」
言ったアクアマリンと、パオが頭を下げたのは同時。
「格好良いけど、滅多に現れない謎の異国人、ってもっぱらの噂……になってますよ?」
アクアマリンへの説明と、パオへの一言を残して次の場所へ向かう。
「じゃあ、三人目!私のお兄ちゃん、ロードナイト!身内だけど一応紹介ね」
前触れなく話し始める二人を、ロードナイトは憮然として見た。
「いつも覆面してるから素顔が見たいっていう声をけっこう聞くんだよね。お兄ちゃん、外さないけど。ちなみに、私は覆面してるお兄ちゃんの方が好きなんだ」
さらりと失礼なことを言ってのけて去っていく妹を追う気にも怒る気にもなれず、彼は溜息をついた。
「後は、今日はお休みしてるアンバーさん。エメラルドさんの相棒、って感じかな。茶髪に緑色の目で、何か軽い人だって思われてるみたいだけど、そんなことはないと思うんだ。で、ね…!!」
ぱっ、と彼女の表情が輝いたのを、アクアマリンは小首をかしげて見た。
「今、風邪を引いて休んでいらっしゃるけど、何といってもエラズル様!!金色の瞳に瑠璃色の長髪、そしてそして一回しか見たことないけど長くて尖った耳!!」
「“リランナ”、の方でしょうか?」
「そうみたい。それでね、とにかく綺麗なの!さっき会ったファリアさんが“お姉さん”なら、エラズル様は“お姉様”って雰囲気かな…もう、お姿が見えないと寂しくて」
「さぞ、お美しい殿方なのでしょうね」
愛らしく笑ったアクアマリンだったが、次第に表情がまた暗くなる。
気付いたユナが次の場所を考えつく前に、彼女は続けた。
「…こちらの女性の方々も、とてもお美しゅうございます。ユナ様もですわ」
「え?」
「……私は、兄様をお慕いしております。こちらの方々があまりにお美しくて、切のうございます」
アクアマリンは俯いた。
「ユナ様の花のような愛らしさ、ファリア様の清楚さ、サファイア様の知的さ、そしてジェイド様の凛としたお美しさ…私、とても敵いませぬ」
どうもこの様子は、兄への敬愛を越えているようだ、とユナは思った。
思ったがとりあえず、耐えきれなくて彼女の頭を撫でた。可愛くて仕方なかった。