5・汚れた宝石-2

ルビー・ラングデルドは一点に狙いをつけて一気に駆けた。
「エメラルドぉ!」
彼女の“ひざかっくん”は見事にきまっていた。だが、足音で予測していたエメラルドはしっかり立ったまま、微動だにしない。
「……つまんない」
すねたようにルビーは見上げた。エメラルドは振り向いて、かがむ。
「よいか、つまるつまらぬというのは、個人で判断するものではないぞ」
「朝ご飯食べにいこ!!」
悪意の感じられぬ微笑みで聞き流し、ルビーは彼の腕にしがみついた。
何か言うのを諦めて、エメラルドは階段のところへ向かう。
丁度、歩いてきたのはエラズルだった。
「エラズル、おはよっ!」
「お早うございます」
彼は上に向かうようだ。礼儀的に、エメラルドは声をかける。
「今日も書物の整理か?アンバーもおらぬことだし、人手が足りぬのなら手伝っても良いが」
「生憎ですが、今日は別の仕事です。あなたがたのように時間を持て余しているのではありませんし。それでは、失礼します」
数回まばたきしてから、エメラルドはルビーを見下ろした。
「…暇だというのでもないのだがな」
「ね」
彼女は小首を傾げてエラズルを見送っていた。

今日の仕事は昼からで、ユナ・カイトは三階に居た。
書物整理のため一般の者が立ち入れない中、堂々と本を手にすることが出来るのは王宮に仕える者の特権だろう。
探しているのは、異国や種族に特有な菓子の本。
そんなものは存在しないかもしれないが、近いものはあるかもしれない――そんな彼女の後ろを通り過ぎたのはエラズルだった。
「あ、おはようございます。お仕事ですか?」
内心どぎまぎしながら、ユナは笑いかけた。そっけない返事が戻ってくる。
「ええ、まあ」
そのまま、彼は奥へと歩いていく。
手伝いを申し出ようかとユナは思ったが、あまりに唐突なのでやめておいた。
それよりも、一瞬感じたような違和感は何だったのか、それが気にかかって仕方がなかった。

「ねえ、パオ、私妙な夢を見たんだけど」
パオ・ルーは振り向き、まばたきして彼女を見る。
「あなた、挨拶だけしていなくなることがあるから本題から入ってみたんだけどね。おはよう」
サファイア・ヴィクテルは悪びれた様子もなく続けた。
「私の見る夢って必然的予知夢なんだけどね、“セラド”だから。でも、陛下に話すべきかどうか迷ってるのよ」
パオが立ち去らずに自分を見ているということは、話を聞いているということだろう。
「侵入者らしき人が夢に出てきたのよ」
世間話でも口にするように、サファイアはさらりと言ってのけた。
口調にも表情にも、事の深刻さというものが感じられない。
「大変なことかな、って思ったんだけどね」
――そんなレベルの大変じゃないだろう。
パオの目は非難も込めて物語っていた。
サファイアは肩をすくめて溜息をつく。
「でも、どう考えてもあり得ないのよ。エラズルが結界を張ってるから、侵入者がやすやすと入れるはずがないし、大体その夢自体が変な夢で……エラズルがね」
ふと、パオの視線が逸れた。
「あら、珍しいわね。エラズルが四階に来てるなんて」
向こうの廊下を歩いていったエラズルは、すぐに見えなくなった。
パオはまたサファイアを見たが、彼女は一言呟いただけだった。
「…やっぱり、あり得ないわよね」

彼女が城内に出向いてくるのは珍しいことだった。
「あー、ジェイドだっ!」
ルビーが大声で呼びかける。ジェイド・アンティゼノは食堂の入り口から入ってきた。
「お早う、ルビー、エメラルド。…エラズルは部屋にいるのか?」
「うん?三階か四階ではあらぬか?仕事があると言っておったが」
「仕事…?」
彼女は端正な顔立ちに疑惑の色を浮かべ、問う。
「昨日から、風邪をこじらせて倒れているのではないのか?」
「…何?」
「リアに、今日はエラズルについていて欲しいと頼まれて来た。…とりあえず、探してみることにする。すまなかった」
「ルビーも探す!エメラルドもねっ」
ルビーは元気いっぱいに申し出た。
「いいのか?」
「うむ、構わぬ。我にも気にかかることがあるのでな」
思案顔で、エメラルドは立ち上がる。丁度朝食は終えた頃だった。

「ユーナーっ!!」
廊下を歩く彼女に後ろから駆け寄ったルビーは、スカートの裾をつかむ。
「ねえ、エラズル見なかった?」
「エラズル様?さっき三階で…」
言って半分振り向いたユナは、意図せず言葉を切った。
エメラルドがルビーと居るのは日常だったが、そこに一人加わっているのは、王宮関係者でも特に女性陣からの圧倒的人気を誇る王直属の騎士、ジェイド・アンティゼノ。
彼女が他の男性に優っている、という訳ではない。
彼女の魅力は、女性の男性らしさ。
「見かけたのですけど」
必要以上に丁寧に続ける。
「風邪は、治ったのか…?」
ジェイドのそれは、単に呟きだったろう。
「エラズル様、風邪をお引きなんですか?」
控えめにユナは尋ねて、ジェイドを見上げる。
「ああ。それで倒れたと聞いているが」
「とてもそんな風には…あ、でも、眼鏡はお換えになっていましたね」
「眼鏡?」
ジェイドとエメラルドの声が重なるのと、サファイアが彼等に気付いたのは同時だった。
「え…っと、何かいつもと違うなって思って見てたんですけど、よく考えたら眼鏡だったんです」
「ねえ、エラズル見てない?」
少々慌てた様子で、駆け寄ってきたサファイアは唐突に聞く。
「今、我等も探しておる。何があった、サフォー」
「陛下から、風邪引いてるって聞いたのよ。普通に動き回ってたからおかしいと思って」
「…倒れる程の風邪など、そう容易に治るものでもなかろうしな」
エメラルドは苦い表情で、先程見たエラズルと彼等の話を総合する。
ふと浮かんだ疑問は、あまりに唐突な愚問――だが、彼は声にした。
「あれは、本当にエラズルだったのだろうか?」
「どういう意味だ?」
「…雰囲気が違う、気がしたのだ。あやつは棘のある言葉は吐くが、今日は特に、ひねりだしたかのような言葉だった。それに、去り際あやつは微笑んでおった。それすらも珍しいが、何より楽しそうな微笑みであった」
ジェイドに答えて、彼は心中で繰り返す。
――そう、エラズルは笑ったとしても、作り笑顔にしか見えないのだ。
全員が顔をしかめた沈黙が流れる。
数秒経って、破ったのはユナ。
「あ…お兄ちゃん」
廊下を、丁度ロードナイトが歩いてきた。
妙に重苦しい場の空気を不審に思ったか、彼は言う。
「何かあったのか」
「エラズルが、よく解らないことになってるんだけど…」
返してきたサファイアを見て、ロードナイトは目を細めた。
「…部屋に居たと思ったが」
「何?」
訝しげに、ジェイド。ロードナイトは、珍しく彼女がこちらに居ることのほうが気にかかるようだったが。
「部屋の前を通ったが、発動中の魔力を感じた。中で何かしているのか、と」
いよいよ解らなくなって、ルビーが不機嫌そうにエメラルドの着物の袖を引いた。
「解っておる。見に行くのがよかろう」
つい先刻の思いつきの発言が、真実味を帯びた気がした。

扉は閉まっている。
「エラズル、居らぬのか?」
エメラルドが扉を叩くが返答は無い。だが。
「…やはり魔力は感じる。そして、気配も」
ロードナイトは扉に触れた。
そうして解ったのは、魔術が扉を抑えていること。
中のエラズルが自身でそうしているのか、それとも誰かが故意にやっているのか。
「開くなら、壊すしかない」
「致し方あるまい。下がっておれ」
エメラルドは指示すると、腰の刀を抜き――扉を斜めに切り伏せた。
倒れてきた扉を受け止め、壁に立てかける。
「エラズル――」
中を覗き込んで、ルビーが小さく悲鳴をあげた。
ベッドに数重に巻き付いた大蛇。
それが動物でも“グリート”でもなく魔術の産物だとロードナイトは瞬時に悟った。
王宮魔導士として実力を誇るエラズルの動きを封じているというのだから、相手も相当の使い手だろう。
何故か大蛇の顔だけは愛らしいのが気にかかるが、とりあえず問題ではない。
部屋に踏み込み、エラズルを拘束するだけで敵意のないそれに剣を突き立てる。
――ありったけの魔力を込めて。
空気に溶けるようにそれが消えていくのを見届けて、ロードナイトは視線をベッドの上に移す。
酷く脅えた瞳。それが先程の大蛇ではなく、自分に向けられているようなのが解る。
「何があった」
答えずにエラズルは起きあがる。彼は普段身に纏っているローブを着ていなかった。
中に着ている黒い服。胸元には見慣れない石のついた首飾りがある。
ふらつく体とぼやけた視界――それでも、彼は誰がそこに居るかは認識できた。
顔の横に手をやり、耳に触れる。
髪がほどけて耳が見えている、とはっきり理解した。
「エラズル、大事はあらぬか?」
エメラルドの声。エラズルはよろめきつつ立ち上がって、後ずさる。
机上に眼鏡があった。手に取って、かける。
うつむいたまま誰のことも見ずに、エラズルは窓に手をかけた。
「――エラズル!」
彼の行動を“見た”サファイアが止めに入る前に、彼は後ろ手で窓を開き飛び降りる。
窓から彼女が見下ろしたのは、魔術の獣に乗って駆けていく姿だった。
「何考えてるのよ、エラズル…」
サファイアは窓を閉める。狼狽えて、今にも彼を追いかけそうな勢いで。
「サフォー」
制するようにエメラルドは強く言った。
「気付いたか?エラズルのローブがここにはあらぬ。我等が見たのは着ている姿だった。やはり、あれは別人だったのだ」
「…私、夢に見たのよ。エラズルが二人いるの…そんなことあり得ないと思って」
「主は“セラド”であろう?もっと自身を信ずるが良い。恐らくエラズルは、もう一人を探しに行ったのだろうな。…先ずは気持ちを治めよ。焦りは良い結果を招かぬ」
それは、不思議と重みのある言葉だった。
サファイアはゆっくり息を吐き、ロードナイトは剣をおさめる。
ルビーとユナは、呆然と壊れた扉の前に立ちつくしていた。
二人の後ろに音もなく現れたのは、パオ。
「ねえ、エラズル見つかった?」
サファイアが尋ねて初めてパオに気付き、ルビーとユナは更に驚く。
「塔」
「塔…白亜塔?…そのエラズル、ローブ着てた?」
自然と、全員の視線が彼に集まる。
パオは、頷いた。