5・汚れた宝石

埃が舞って、多いところではそれが白くはっきり見える程だった。
かつてない程珍しいことに、アンバー・ラルジァリィは朝から図書室に入り浸っていた。
しかし彼は本を読んでいるのではなく、床に積まれた本をひたすら棚へ入れている。
天井に穴を空けた彼に言い渡された処遇は、“書物の整頓手伝い”だった。
昨日から始めたものの、未だ3分の1にも満たない現状を再確認して、アンバーはうなだれる。
頼みの綱のエメラルドは、ルビーと庭へ行ってしまった。
「やってらんねぇ…」
力なくその場に座りこんで、彼は恨めしそうにエラズルを見やった。
王から頼まれたのは“エラズルの手伝い”であったはずだが、彼は指示を出すだけでほとんど動かない。
「休むのは構いませんが、いつまでも終わりませんよ」
埃を吸ったのだろうか。エラズルは咳き込んだ。
アンバーの目から見ても、彼が相当疲労しているようなのが解った。
昼頃にあった対外国政策の話し合いで、信じられないことにエラズルは参考資料の準備を忘れていたらしい話が伝わっている。
動け、と言おうとしたのも忘れて、アンバーは告げた。
「お前、そっちで座って指示出してろ」
立ち上がり、埃を払う。何も言わずにエラズルは従って、読書用の椅子に腰掛けた。
「…とにかく、そこの棚には歴史書を集めて下さい。その段にはそこの紫の本と緑の本と茶褐色の本、それから金の縁取りの本です」
「この紫と茶色と金?早いぞお前」
「それぐらい一度で覚えられなくてどうするんですか。緑が抜けています。それに、金の縁取りです」
面倒そうにアンバーは本を持ち上げた。割合重量がある。
ぱっと見ただけで細かな指示が出せるのだから、なるほど、エラズルが城内で一番図書室について詳しいというのにも頷ける。
「次はそこに積んである中から、赤、黄、青、橙、白、黒、それと箱に入った二冊をその左に入れて下さい」
「赤黄青橙白…おい、黒い本なんてないぞ」
半ばやけになって、アンバーは言われた通りに本を積む。しかし、エラズルが指示した辺りに黒い色は見えない。
「……無い、ですか?…だったら、深い灰色の…」
また、エラズルが咳き込む。彼が居る辺りに、埃は大して立っていないはずだった。
「お前、風邪引いてんじゃねえのか?はっきり言って顔色悪いぞ」
アンバーは、彼の居る机まで行って見下ろした。
「あなたはご自分の心配をなさったほうが良いのでは?いつまでここに居座る気ですか」
言い返してきたエラズルは、元々色白ではあるが、蒼白と呼ぶに相応しい肌色だった。
いいかげん放っておこうかとも頭をよぎるが、勝ったのは良心だった。
「今日はもう終わっといていいんじゃねえか?少しでもやってれば、いつかは終わる訳だし」
「そんな考えだから未だこれだけしか済んでいないんでしょう。戻りたければ勝手に――…」
エラズルは右手で額を抑えるように俯く。そのまま机に突っ伏した。
「おい…」
とりあえず起こそうと、アンバーは彼の肩に触れた。
――――冷たい。
熱があるようには見えなかったが、確かに正反対だ。冷たい。
氷、とまではいかないものの、ぞっとする体温。血の気が失せているとでもいうのか。
「どうしたお前?死人じゃねえんだから…」
「…大声を出さないで下さい。耳に障ります」
彼の手を払いのけて、エラズルは立ち上がった。
当然だがややおぼつかない足取りで、それでも本の片付けを始めようとする。
「やめとけって。ぶっ倒れるぞお前」
「声が煩いと言っているでしょう」
その一言がよほど気に入らなかったのか。
アンバーはつかつかとエラズルに歩み寄り――
「寝てろ阿呆」
首の後ろに、手刀を叩き込む。
体勢を崩した彼を支えて担ぎ上げると、アンバーは溜息をついて階段を下りた。
自分と5歳離れているとはいえ、彼の体はあまりに軽かった。
何ヶ月か城で過ごして、仕える者達の住む二階の部屋割は大分把握できていた。
エラズルの部屋は、アンバーの部屋とは離れた位置にある。
扉を開けるとそこは、第二の図書室だった。
壁が見えなくなるほどまでに並んだ本棚。アンバーにしてみると見るのも嫌なほど分厚い本から研究ノートらしきものまで、隙間無く詰められている。
書物が日に焼けるのを防ぐためだろうか、部屋は薄暗い。
正確な対処法が解らず、かといって放置する気にもなれず、とりあえずアンバーはエラズルのローブだけ脱がせてベッドに転がした。
それをたたんで机に置いてから眼鏡を外してやり、髪をほどく。
「……――――あ?」
流れる美しい髪の下から現れたのは、長く、先の尖った耳だった。
“リスティ”の耳も尖っているが長くはない。初めてアンバーがエラズルに会ったとき、彼は自分が“リスティ”ではないと断言していた。
それは明らかに、別の種族の特徴だった。
アンバーはエラズルに毛布をかけてやってから、静かに部屋を後にした。

目を開いても、広がるのは闇。
眼鏡が無いのだ。それでも、近くに人の気配を感じる。
エラズルは体を起こした。同時に、酷く心配したような声が聞こえる。
「……エラズル」
「――ジェム!?」
目を見開いて、彼は声の主を探す。ジェミニゼルがベッドの傍らにかがんだ。
「大分風邪をこじらせたようだ。倒れるまで無理をしてどうする」
「無理、なんて…」
倒れた、という記憶は無い。しかし自分がこうして自室に居るのだからそうなのだろう。
「今日のミスや、この現状で解るだろう?この機会にゆっくり休みなさい」
「――ごめんなさい!!」
今にも泣き出しそうにエラズルはその言葉を絞り出した。
「もう二度と今日のような失敗はしません!決して倒れたりしないで仕事しますから…」
「エラズル、私はそんなことが言いたいのでは…」
縋るように、彼の手がジェムの腕をとらえた。
「…僕を捨てないで……」
震える声が懇願する。
――その時のジェミニゼルの悲痛な表情を、エラズルは見ることが出来なかった。
眼鏡無しで彼が確認出来るのは、朧気な像のみ。
「当たり前だ…エラズル、もう眠りなさい。顔色も戻っていない」
言葉に従って横たわったエラズルが再び眠りにつくのに、そう時間はかからなかった。
王は足音をたてないように、部屋を出る――
「アンバー…」
気まずそうに、手に軽い食事を持って立っていたのはアンバーだった。
「あー、何つーか、一応?あいつ食べねえとは思ったけど」
「そうか。置いておいてやるといい」
彼が嬉しそうに微笑む理由は解らなかったが、アンバーはとりあえず部屋に入った。
戻ってくるなり、口を開く。
「聞かれる前に自己申告。『もう二度と』辺りから聞こえてた」
「…ああ」
「で、まあ、俺としては関係ないし、変に勘繰ってる訳じゃねえし、誰かに話すつもりもねえし……恋愛は自由だと」
「……言いたいことは何となく解ったぞ」
「俺がジェムに仕えるのも何ら変わりないというか。とりあえず俺は何言ってんだ。混乱中」
「何も言わなくていい。話しておくことがあるから、こっちに来てほしい」
言われるままにアンバーがついていったのは、二階のバルコニー。
他に人は居なかった。夜もかなり深い時間帯であるから、当然かもしれないが。
「…ジェム、あれは風邪なのか?」
先に問いかけたのはアンバー。少し間をおいて、ジェミニゼルが答える。
「ああ、風邪だ……ただし、“グリート”の」
「“グリート”の風邪……なあ、あいつ“リランナ”なんだろ?」
「そうだ。それを話そうと思って連れてきたんだ」
王は手すりに背を預けて、アンバーと向かい合う。
広い大地に散る多くの種族は、大抵の場合互いを良くは知らない。
知らずして、互いを敵視し、警戒する。
それを変えたいと思った。
最も新しく現れた種族――“リランナ”。
正しくは彼等は、造られた、のだ。
長く尖った耳と、“リスティ”同様金や銀の瞳を持ち、魔力を備える種族。
自身がそうであることを頑なに隠そうとしたエラズルの気持ちは痛いほど解ったが、ジェミニゼルは続けた。
アンバーは恐らく、偏見を誰よりも持っていない者だから。
「“リスティ”や“グリート”の魔力は、その種族間でしか遺伝しない。例えば厨房のユナ・カイト。彼女は“リスティ”と“ヒュースト”の混血だが、ロードナイトのような外見的特徴も魔力も無いだろう」
「ああ、言われてみれば」
「…無力で欲深い“ヒュースト”が、魔力を利用する為に生み出したのが“リランナ”だ。“グリート”の遺伝子を直接“ヒュースト”の卵に組み込むことによって、魔力を植え付けることが出来るらしい」
「それが、“リランナ”」
「ああ。戦前戦時、南方で研究が盛んだった」
「だから、“グリート”の病気にかかるのか…」
「遺伝子の構造が組みかわるから、だと聞いている。“リランナ”の多くは体があまり強くなく、生まれつき身体障害を持つ者がほとんどだ。…エラズルは、眼鏡を外すとほとんど見えないに等しい」
その言葉で気付く。
眼鏡をかけているのが当たり前だと思っていたエラズルは、アンバーが初めて彼に会ったときにはそうではなかった。
図書室で軽く衝突した――あれは、見えていなかったのだろうか、と頭をよぎる。
「…中でもエラズルは特殊で、“グリート”ではなく“リスティ”の遺伝子が組み込まれている。それが、白亜塔のファリアの母親のものだ」
「えーと?何か混乱してきた」
顔をしかめて髪を掻き上げ、アンバーは嘆息した。
「何、用はあいつ、自分でそれ知ってる訳だろ?」
「そうだ」
「あの、捨てないで、とかってやつ…あれ、あいつ自分のこと」
「…“人間”だとは思っていない。そうやって育てられたようだから」
ジェミニゼルの苦々しい表情は、彼がそのような考えではないことを如実に物語っていた。
ヒュースト、ヴェルファ、セラド、リスティ、リランナ――すべて、同じ。
差異があり、種族は違えど“人間”なのだ、と。
それが、ジェミニゼルの信念。
「重度ってか、末期の疑心暗鬼ってやつだな」
アンバーはジェミニゼルの横に立ち、手すりに手をかけて遠くを眺めた。
暗くて見えはしないが、視線の先にあるだろう南の地。エラズルの“故郷”。
「…まあ、解らなくもねえよ。俺も相当レア度高い異端者だしな」
「アンバー、私は」
「そんなことが言いたいんじゃない、だろ?解ってる。とにかく、あいつが無茶やらかしかけたら止めといてやるよ。乗りかかった船ってやつだな」
軽く告げて、微笑み。
彼のその“強さ”に、戦時中どれだけ救われてきたことだろう。
――その“強さ”は同時に“弱さ”でもあるけれども。
そのことを告げたら、彼が嫌な顔をするのは目に見えていた。
ジェミニゼルは微笑んで、礼を述べる。
彼にエラズルのことを話したのは、種族に気が付いたからだけではない。
突き放すように他者に冷たい言葉を投げかけるエラズルに、それすらも気にせず接するアンバーだから。
天井の穴など、本当はどうでも良かったのだ。
少しでもエラズルと話をしてほしかった。ただ、それだけ。
不意に、アンバーが手すりから離れた。
夜闇の月は、真南に傾いていた。王はそのことに気付く。
「悪い、ジェム、そろそろ時間だ」