4・隠密派-2

冷蔵室の扉を閉めて、ユナは満足そうに頷いた。
サファイアからの頼まれ物は、このまましばらく置けば完成するだろう。
だが、何せ見たことも聞いたことも無かった初めての菓子。成功したという保証は無いが、手順を間違えてはいないはずだった。
今日はもう仕事は残っていない。
図書室を訪れて、見たことのない菓子作りの本を探そうか、と、冷蔵室に背を向けたユナの数メートル先を、誰かが涼やかに通過していった。
黒目。髪は長くオールバックだが、一部前髪が下がっている。例えるなら、触覚。
ひとつに束ねた髪がかかる服は、異国のもののようだった。縫衣と巻衣を合わせたような作りで、腰のあたりから下がっている布の模様は、線の描く四角形だ。
――左袖のあたりにある赤い布は、十字だろうか?兄と同じように。
何となく思いめぐらせながら、ユナは彼を視線で追う。
彼が見えなくなってから。
「――――――……」
ユナは混乱し始めていた頭をきっちり整頓し、もう一度見た光景を思い返す。
そして、走った。
あれは間違いなく、一度見た城で話題の謎の青年だ。
厨房の中に、兄の姿を探す――いや、居ない。
では上か外か――直感で彼女は階段を駆け上る。
四階の所で見知ったマントの後ろ姿を発見し、ユナはその背にしがみついた。
「お兄ちゃん!」
「…?」
ロードナイトは肩越しに振り返った。
マントをしっかり掴みながら、ユナが目で何か訴えてくる。
ひどく慌てており、困惑しているようだ。だがそれしか解らない。
「何があった?」
「触覚びよーんでぐるぐる四角のオールバックな赤十…字?」
言いながら、彼女の混乱は頂点に達したようだ。
「聞かれても解らない。とにかく、落ち着け」
「居たの!異人さん!また見かけたのよ!」
矢継ぎ早に語りながら、ユナはロードナイトに詰め寄る。
彼は向きなおって妹を見下ろす。真剣そのものの瞳。
「どこで見た?」
「一階…の、冷蔵室前…」
「解った、見てきてやる。…それ程大事だとは思わないが」
階段を下りようとして、気付く。まだ彼女はマントを掴んでいる。
「…まだ何かあるのか」
「そうじゃなくて、私が調べにいきたいから、お兄ちゃんに手伝ってほしいの」
――どうして、こうも勇敢な妹に育ったのか。
喜ぶべきか悲しむべきか、ロードナイトは溜息をついた。

「よし、ルビー、トーティムとチェルは?」
「外の草陰から見ててくれるっ!」
「…で、奴は一階に下りたらしい。階段はそこらの兵士に見張らせた。これで何とかなるだろ」
頷き、アンバーは武器を軽く床についた。
「完璧、だな」
誇らしげに彼が微笑むと、ルビーも倣う。
「探すか」
中央に階段があり、左右に廊下が一本ずつ広がっている一階。その廊下は奥で繋がっていて、厨房や食堂にも直結する。
二人は左から廊下を曲がった。
その頭上を、半透明の球体が飛んで過ぎていった。

エラズルは、階段傍の長椅子に座っていた。
目を閉じたまま、流れ込んでくる画像を分析する。
頭の中だけの白黒の画像。
数個にわたるそれらのひとつが、突如消え失せた。
放った、探知用の仮視覚がひとつ破壊されたようだ。
球体をした仮視覚は気配もなく、小さい。気付くだけでなく破壊できる者がいるならばそれは、魔力を持つ者か必要以上に注意深い者だ。
どう考えてもアンバーではない。少し映ったが、気付いてすらいないようだったから。
では、誰か。
仮視覚を感知できそうな者を数え上げても、片手の指で事足りる。
そのうちの誰もがこの一件に関わっていないとすると、今仮視覚を破壊したのは例の異国の者ということだ。
確率は五分五分だ、とエラズルは判断した。
行動を起こすのにはいささか頼りない数値だったが、彼は立ち上がった。
目を開くと仮視覚の映像は消えたが、まだ飛ばしたままだ。
慎重に、エラズルは歩みを進める。
仮視覚の消えた場所――即ち、食堂の辺りへ。

どこか知的な雰囲気を持った、よく似た顔の男女二人が出入り口の辺りに立っていた。
浅い帽子を頭にのせ、侍従、侍女服を独特に脚色している。
年若く、少年のほうは眼鏡だが、レンズではなく硝子の伊達のようだった。
「なあ、兄…こんな所で待っとって、ほんまにキィ坊来るんか?」
侍女、ムーン・ストーンが先に口を開いた。ブラッド・ストーンが返す。
「何言うとんねん!昔から“果報は寝て待て”言うやろ」
「なるほど…それもそうやね。そういえばあたし、昔は家の宝って書いて“家宝”やと思っとった」
「寝て待ってどうすんねん!泥棒に盗られてしまうやないか!」
「そうやない、盗られた家宝は寝て待っとったら戻ってくるもんやと思っとったんや」
双子の会話に、近くにいた者達がややざわめき始めた。
「流石、姉は考えが違うわ…確かに、どっかの国では子供が寝てる間に赤服白髪のじいさんが不法侵入して、何か置いてくって話聞いたことがあるわ」
「赤…そや、兄、局長やウサギちゃんとかが服につけとるあの赤い十字架って、何か意味あるんか?」
「それやそれ!オレも気になっとる。割とお偉いさんに多いんや」
どんどん脱線していく内容に引き込まれて、小さな人だかりが出来ていく。
当の二人は周囲の様子に気付く様子もなく、話に夢中だ。
その即興漫才を止めに入る勇気のある者は、その場に居なかった。

ふと、見下ろす。
「……ユナ」
妹が愛用のフライパンをしっかり握っている姿を確認して、ロードナイトはどうしようもなくやるせない気分になった。
「なに?お兄ちゃん、何かいた?」
無言で、首を横に振る。
それが彼女の武器にあたるものだと知っていたので、戻してこいとは言えない。
だがとりあえず、持ってこないでほしかったとは思う。
彼女が過去、それで父をしたたかに殴って家出したことを思い出すからだろうか。
そういえば、その頃から気丈な妹だった。
「さっきあの人が歩いていった方向からすると、食堂のあたりだと思うの。意外と、遅い昼食を取ってるとか」
独自の推理を展開させつつ、ユナは無意識に手に力を込める。
触覚の彼が悪人であった場合に備えて、武器は必需品だと彼女は考えていた。
気付くと、兄が虚空を見上げている。
「ねえ、やっぱり何かいるの?」
「…魔術の一種だ。城内で使用できるような者は…王宮魔導士、か」
「エラズル様の魔法?」
ユナがじっと目を凝らすと、朧気ながら球のようなものが見えた。
手の平に三つは乗るような、小さな半透明の球体。
言われなければ、気付くことさえなかっただろう。
「何してるのかな…エラズル様」
小首をかしげるユナの横で、ロードナイトは彼が恐らく同じ者を追っているのだと悟った。
だとしたら、彼に任せておけばそれで良いのだろうが。
どうも探索への意欲に満ちた妹に水を差す気にもなれず、答えなかった。