3・オオカミ-3

彼女の足音が聞こえないと気付いたのはいつであったろうか。
建物が木である“ヴェルファ”の家屋でも、廊下はきしみすらしなかった。
それは城に居る時から薄々勘づいていたことだ。
冷静に考えてみると、何と恐ろしいことだろう。
そこに居るはずなのに、今は気配すら感じられない。
「のう、サファイア?」
襖が開いた。エメラルドは背を向けたまま迎える。
「そろそろ時間じゃないかと思ったのだけど」
「そのようであるな」
彼女は数歩歩み出てきた。彼は動かない。
「今日はロードナイトに任せたほうがいいんじゃない?今日長を襲ってくると解る訳じゃないし」
「それは出来ぬ。ここへ来た以上、我は長を護らねばならぬ」
「私もこれから向かうから、大丈夫だと思うけど……」
「“聖騎士”と“狙撃手”が揃えば、そうであろうな」
「あら、私、話したかしら」
「いや」
“ヴェルファ”の青年はようやく振り向いた。
サファイアに向けられたのは挑戦的な眼差し。
「私、そんなに信用ない?」
「主が我を足止めする由縁が解らぬのだ」
「話さないほうがいいと思うけど」
「では、我は行かねばなるまい」
彼女は呆れたように溜息をつく。彼の忠誠心――それがジェミニゼルへのものか、長へのものかは解らないが――はこんなにも深いらしい。
エメラルドを見る彼女も、挑戦的に微笑んだ。
「……主、まるで悪役であるな」
「どう思ってくれても構わないわ、この際」
サファイアは真っ直ぐにエメラルドを見据えて告げた。
「あなた、死ぬわよ」
「……何?」
エメラルドの表情が固くなる。
サファイアは嘘偽り無い瞳だった。
「獣化は“死”だと言ったわよね」
「何、を」
「あなたが出ていくことで、三人が獣化して襲ってくる。彼らと戦うためにあなたも獣化して……そして、獣化したあなたを倒すのは、私とロードナイト」
「何を根拠に言っておる」
獣化による、獣としての死。“ヴェルファ”の誰もが持つ恐怖。
哮る獣さながらの双眸は、怒りと動揺を宿す。
「……私は“セラド”。時を映す瞳を持つ種族」
「“ヒュースト”では、あらぬのか……?」
近付いてくるサファイアの、宝石のような瞳。深い碧。
その種族の名前は聞いたことがあった。聞いた、というよりは自分で調べたのだ。
全ての種族の共存を掲げるジェミニゼルの元に仕えるのならば、と。
“セラド”は特殊な瞳を持つ種族。
その瞳は、人により、少し先のことや昔のことなどを見ている。
未来予知にも匹敵するその能力故、戦時は重宝されて強制的に駆り出されたという。
種族で集落を作り、“ヴェルファ”同様滅多に外へは出てこないと書いてあったが。
「私の瞳は少し未来を見る。自分が関わることなら少しだけ、関わらなければ長めに。……そして私の夢は、目で見る時間よりも少し後の出来事の、ひとつの形を映すことがあるの。正確な予知夢よ」
「見えた、のか?」
「だから、行かせないわ。陛下はあなたの死を望まないから。私の予知は、あくまでも一つの可能性なの。明日なら、あなたは死なないかもしれない。あなたが行かなければ相手は出てこないかもしれない。私の見たひとつの可能性は、簡単に他とすり替わる」
「しかし、な……それでも、長に請われた我が向かわぬ訳にはいかぬ」
サファイアは彼をじっと見つめ、道を開けた。
見えたのは、剣を向けてくるエメラルド。
それは望まない。あまりにも無益すぎる。
慣れない演技の挑発的な態度さえも通じないのだから、打つ手が無い。
「……いいわ。私が今話したことで、多少なりと変化があるかもしれないし。あなたが獣化しなければいいだけの話よ」
「肝に銘じておこう」
月は、満ちていた。

「そこに居るのは王宮の者か?」
そうロードナイトに呼びかけたのは、家の内からの声だった。
「はい」
彼が返すと、毛皮で作られた着物を身につけた男性が歩み出てきた。
年のころは50前後。暗灰の髪に赤眼。
外見はエメラルドから知らされていた。“ヴェルファ”の長、カガリ。
「ラルドは森の方へ向かったのか」
「はい。“狙撃手”も同行しております。私は万一に備え、こちらに控えております」
「真に申し訳なく思っておる。我に仕える“ヴェルファ”の猛者は鳥の者。夜の争いでは狼の者に及ばぬのだ」
「存じております」
カガリは森を見つめた。彼の体格を見ても、彼自身武人であったのは間違い無い。
かつて、戦時のことだ。カガリはジェミニゼルと剣を交えたという。
エメラルドが昼間に語った昔話。
「あやつは、“ヴェルファ”で最も刀に長けておる。血統さえあれば、上位の“ヴェルファ”であるのだが」
「血統、ですか?」
「ラルドは、“ヴェルファ”で五本の指に入る剣士の狼の者と、身分ある虎の者の子であるのだ。獣の混血は著しく血統を下げる。それにも関わらず、あやつは他のあらゆる面で他者に優るのだ。あやつを好まぬ者も多い」
それは初耳だった。自身が狼であることを語るエメラルドは、誇らしげですらあったから。
「……それが、悪く作用せねば良いのだがな」
口調は淡々としているが、カガリがエメラルドを案じているのが解る。
“ヴェルファ”は不器用なのかもしれない。自分と、どこか似て――ロードナイトは思った。

エメラルドが対峙したのは、見知った相手だった。
サファイアが告げた通り三人、長の家へ向かおうと森に潜んでいた。
ひとつ話と違うのは、彼等が獣化していないこと。
――出来るなら、そのままで居て欲しいと願う。
「主等、長に牙を剥いた覚悟は出来ておろうな」
エメラルドが宣告すると、狼の者達が口を開いた。
「エメラルド、何故主は“ヒュースト”に与するのだ」
「我等は、奴等とは異なる。共存など出来ぬよ」
話さなかった一人は、かつて友とも呼べたであろう。だが今、それが何だというのか。
エメラルドはもう自問すらしない。
彼等は、敵。刀を向けてくるのなら戦うまで。
「我は、そうは思わぬ。現に我は王宮で生活しておる。……我の主はジェミニゼル・ライエ・ルジェンス国王である。主等を放っておいては、いつかジェムにも仇なすやもしれぬ。見過ごすことは出来ぬ」
「……では、我を狩ってみよ、エメラルド。主に刀では敵わぬのだ」
始めに言葉を放った者の姿が変化していくのを見るエメラルドは、無表情だった。
低く唸る声と、敵意。
「……よかろう」
彼はすっと片足を引き、刀に手をかけた。
「ジェミニゼル国王近衛騎士、“剣聖”エメラルド・ローレッツィ……」
死なぬ、と心に誓う。死に場所はここではない。今の主君はカガリではない。
生きて、帰る。
「――我、“ヴェルファ”の狼なり」
闇を裂く銀刀が、抜き放たれた。

サファイアは矢を引き絞った。
見える。狼がエメラルドに飛びかかった隙に、“ヴェルファ”が何か剣技を放つ。
風を貫く矢が突き立つのは、片膝をついて刀に手をかけた男のその右手。
エメラルドは死なせない。相手の“ヴェルファ”も彼女は殺さない。
それが、エメラルドの望みだから。
更に、彼女は矢を番える。相手の奇襲に対処出来るように。
外さない。外す訳が無い。
未来を映す瞳の“狙撃手”――それが、秘書官サファイア・ヴィクテルのもうひとつの姿。

狼の首が、刀に薙がれて飛ぶ。
鮮血を浴びて点々と赤く染まった衣が風に靡く。
腕に矢を刺したままの男を見下ろすエメラルドの目は、軽蔑。
「陰から“居合い”……主は誇りすら捨てたか」
「何処から矢を、放った?主こそ……」
「主等が姑息な手段を選ばねば、射らせぬ。我は城へ戻らねばならぬのでな」
目を逸らした彼も、姿を変え始める。
「ラルド!」
動かずにいた、最後の男が呼びかけてきた。
「長に背いた我等は退くことは出来ぬ。……よもや、主が戻ってくるとは思わなんだ」
「我は“ヴェルファ”である。例え、外に居ろうとも」
「……主が先程問うた覚悟など、とうに出来ておるよ」
エメラルドが刀を向けたのは――
二体の、狼。

ざわめく風と、断末魔の咆哮。
居心地悪そうにするロードナイトと対照的に、カガリは穏やかだった。
「ロードナイト、とやら」
「……何でしょう」
「ラルドは、王宮でどのようなのだ?」
「どういう意味です?」
「正直、我は国王の掲げる共存を受け入れはしたが、“ヴェルファ”が他種族と共に生きられるのか解らぬ。あやつが“ヴェルファ”であることで、不自由をしているのではなかろうか、と」
「……私には、解りかねますが」
役職も異なる。会話すら、ここへ来るまでは必要最低限。
しかし、城内で見かけるエメラルドは、騒がしい者と一緒で――
「愉快そうには見受けられます」
不確かなことではあるが、カガリのほころんだ顔を見る限り無駄ではないと思われた。
風が、強い。

純血の、狼。
血統で敵わないから、ひたすらに刀に努めた。
混血を蔑むのではなく、ただ認めて欲しかった。
腕に矢の刺さった狼の心臓を貫く刀。
息絶える直前――その牙が、エメラルドの右肩に深く食い込んだ。
刀は離さないが、抜けない。右手に力が入らない。
飛びかかってくる最後の一頭。
「撃つな、サファイア!」
背後で動く気配への懇願とともに、最後の狼の首元に突き出す左腕。
肉に届いたのは、狼の牙ではなく爪だった。
喉元から突き抜ける、血に染まった腕――それは、狼の脚。
獣化した手から袖の毛皮を朱に染めて、エメラルドは立っていた。
「エメラルド!」
悲鳴に似たサファイアの声がする。
走り出てきた彼女は、震える手で矢を番えた。
「……案ずるな、サファイア。腕、だけであるよ……」
腕を引き抜き、牙をはがす。流れ出る鮮血。
「じきに、手は戻る。自我は消えはせぬ……これは、完全な獣化ではあらぬから」
妹にも会いたかったが、その時間も無いようだ。もう、症状が現れてきている。
「じゃあ、手当しないと……」
「寄るでない!」
弓を下ろして進み出る彼女にあびせられた、強い言葉。
「な……ん」
「すぐに発つ。ロードナイトと共に、里の入り口で待っておれ」
「あなたはどうする気よ?エメラルド」
「すべき事がある。すぐに追う」
彼が見るのは狼の亡骸だった。サファイアは悟るが、それと彼の言動は別だ。
「ねえ、訳が解らないわ……」
「……“ヴェルファ”には、習性があるのだ。あまり他者に話して気味の良いものではないので黙っておったが――」

エメラルドの語った事実は、残酷なまでに真実味があった。
サファイアは、里の方向へ足早に進む。
ロードナイトとカガリが、彼女を迎えるように立っていた。
彼女は頷く。
それで全てが終わったことを告げる。
満月が、真上から神秘的な光を降らせている。
森から、細く狼の遠吠えが響いた気がした。