2・白亜塔の天使-3

虚構の“グリート”の長は少しずつ近付いてきた。
反射的に、エメラルドは半歩後ずさる。
不意に、頭の横を何かが掠めた。白い塊に見えた。
そしてそれはひとつではなく、瞬きする間に部屋が白いもので埋め尽くされていく。
「鶏……?」
丸くて白い身体に黄色いくちばし、赤いとさか、黒くて円らな瞳。
可愛くデフォルメされているものの、それは確かに鶏だった。
前も鶏、後ろも鶏。
耳に痛い鳴き声に掻き消されるように、ラングディミルの姿が瞬間的に消滅した。
刀を振るえば消滅するが、それで済む数ではない。
エメラルドは徐々に端へ追いやられていく。
「――――っ、ルビー、居るか!?」
「エメラルドぉ!」
声が、聞こえた。
姿は見えないが場所は即座に理解した。
――窓際だ。それもカーテンの後ろ。
突破口は唯一つ。エメラルドはそちらへと道を斬り開く。
身動きが取れないようにもぞもぞと動くカーテン。そこに、ルビーが居る。
「ル……」
エメラルドが呼びかける前に、やみくもに動かした彼女の手が窓を開いた。
鶏がそこから飛び立って、消滅する。塔にかかった魔術だ、外までその効果は及ばないらしい。
しかし、鶏の勢いに押されてルビーの体が傾く。
「見つけたぞ、ルビー!」
その、“かくれんぼ”の終結を告げる言葉と同時に、鶏の大群が一斉に消えてなくなった。
よろめいたルビーが、登っていた窓枠から足を踏み外す。
「――――――!」
彼女が窓の外へ落ちる直前、エメラルドの手がその身体を引き寄せた。
近衛騎士は自ら窓枠にぶつかって勢いを殺し、彼女を抱きしめて止まる。
ルビーは呆けたように彼を見上げていた。
「この、御転婆娘」
痛みに少しだけ顔を顰めつつ、くしゃりとエメラルドは頭を撫でてやる。
安心感からか、ルビーは涙を流した。
「ご無事でしたか!?」
言葉と同時に姿を現したのはファリアだった。傍らにはジェイドも居る。
「すみません、私が適当な扉を開けたばかりに……」
エメラルドは目を見張っていた。
扉だとか鶏だとかいう問題ではない。
ファリアはあの、羽根の付いたケープを脱いでいた。どうやら彼女の服は、背が大きくあいていたようだ。
エメラルドから彼女の背は見えないが、そうであるに違いないと彼は思った。
ファリアは、エメラルドとルビーから見た窓の外に居た。まさに鶏が消えていった先だ。
その細腕でジェイドの体を支えているのだから、何か魔術を使っているのだろう。
ファリアの背からは、ケープに付いていたものと同じ純白の、大きな翼が生えている。
――――彼女は本当に、“天使”だったのだ。

「簡単に説明しますと……私たち“リスティ”には本性というものが存在します」
ファリアはカップに紅茶を注いだ。その横には菓子も置いてある。
彼女たちは最初に集まった部屋に戻り、一息ついていた。
ルビーもすっかり泣きやんで、目の前のお菓子に瞳を輝かせている。
「本性、とは呼びますが、人の姿と本性と、どちらが本当とは言うことができません。どちらも、私なのです。その本性は大抵“グリート”に近い姿なのですが、私のように翼を持つだけのような者も居ます」
「本性が人の姿に近いほど、魔力の強い者だそうだ」
と、ジェイド。
「私の本性は“有翼人”…先程の姿です」
ファリアが本性を出したのは、鶏の波に溺れそうになったジェイド救出の為であった。
普段その姿でいないのは、そうする必要が無いというだけの話だ。
ルビーは既に話を聞かず、午後のティータイムを満喫している。
「では、ロードナイトやエラズルにもその本性とやらは存在するのか?」
「ああ、ロードは“晶角狼”だと聞いた。人型ではないものの、かなり上位の“リスティ”らしい。エラズルは……」
堪えたジェイドはファリアに目をやった。彼女が答える。
「ラズは、“リスティ”ではないんです」
「そうなのか、すまぬ。何と勝手な思い込みであろうな」
では金の瞳を持つ彼は何なのだという問いよりも、ファリアがエラズルと親しいようなことのほうがエメラルドは気になっていた。
エラズルがこの白亜塔に来る用事などあるのだろうか、と。
「ラズは、私の弟なんですよ」
察したのか、ファリアは告げる。
では何故“リスティ”ではないのかという疑問が出かかったが、エメラルドは口をつぐんだ。
この場に居ない者をあれこれ詮索するのは、あまり良い趣味ではない。
何となく話が途切れて、ジェイドが呟いた。
「……そういえば、何故鶏が出てきたんだろうな」
「それは、我も気にかかっておった」
ルビーはふと向けられた二人の視線にも気付かず、菓子を食べている。
ルビー自身が驚いていたようなのは、彼女の慌てぶりからも判る。ルビーの意思で現れたという可能性は無いだろう。
「……私が思うに、あれはルビーの無意識の強い恐怖なのではないでしょうか。この塔は、意思だけを映すのではありませんし」
ファリアがぽつりと呟いた。
「と、いうと?」
エメラルドが尋ねる。ほんの少し引っかかりを覚えながら。
「作為的に形作らなかった部屋は、心を映します。最上階の奥の方の部屋、なかなか近付かないような場所に現れやすいものは、閉じこめておきたい恐怖ではないかと……」
「………」
「……どうした?エメラルド」
すっ、と気まずそうに目を逸らして黙ったエメラルドを不思議に思ってか、ジェイドは声をかける。
心当たりは痛い程あるのだが、ここで言うべきことでもないだろう、とエメラルドは判断する。
「いや……それよりジェイド、今日は本当にすまなかった。色々といらぬ手間をかけてしまったな」
口にしたのはその言葉。彼女は、ファリアに撫でられて幸せそうに笑うルビーを見やった。
「気にすることはない」
彼女もまた微笑む。
そう、確かに悪い日ではなかった、とエメラルドも思った。

窓を開けると月が綺麗だったので、彼女は眺めていた。
そうしているうちに、誰かが階段を登ってくる音が聞こえたのは夜の更けた頃。
姿は見えなくても、相手は解っていた。他の種族には無い特殊な力――魔力を感じる。
いや、そんなものは関係ないのかもしれない。
彼だから、判るのかもしれなかった。
「……リア?」
「開いているわよ」
ファリアは振り向き、扉を開けた弟を笑顔で出迎えた。彼も応えて、笑う。
「仕事が一段落ついたので、寄ってみました」
「嬉しいわ」
エラズルは、室内の長椅子に座った。小さな溜息が漏れる
「ラズ、私ね、今日はとても楽しかったわ」
「何があったんです?」
「ルビーが遊びに来てくれたのよ。それと、ほら、近衛騎士のエメラルドさん」
「ああ、どうりで……今日は城内が静かだと思いましたよ」
ファリアは彼の横に腰を下ろした。ケープの羽が、その手にふわりと触れた。
温かい言葉と、微笑み――そこが、彼にとって唯一の安らげる場所だった。
「“かくれんぼ”も、ここですると大変なのね」
「……そうですね」
少しの沈黙の後、肩にかかる僅かな重み。
ファリアは寄りかかってきた弟の髪を撫でた。
「ねえ、リア……」
俯いたままエラズルは囁く。
声は彼女にだけ届けばいい。
「まだ、出てはこられませんか?」
ファリアの表情が曇った。
いつまでも、塔にだけ居る訳にはいかないのだ。解っている。
ジェイド――騎士が来てから、他者と話すのは恐れなくなった。外を眺めるのも平気になったし、出てみたい、とも思う。
それでも、出られない。体が拒絶する。
塔は彼女の家であり、世界の全てでもある。
最早何を恐れているのかさえ見失ってしまう程、「外」が怖い。
少なくとも城の敷地内は安全だと信じきってもいる。
それでも。
「……ごめんなさい」
「いえ、僕こそ無理を言ってしまいました」
エラズルはすっと立ち上がる。
「戻ります。また、近いうちに」
「送るわ、ラズ」
二人は続いて部屋を出た。
塔の出入り口まで二人は互いに何も言わなかった。
エラズルが「外」へ――城へと暗闇の中、歩みを進める。
ファリアは、ただ扉の所に立っていた。
本当は城の方まで送ってやりたい。
だが、そこからそれ以上、一歩でも踏み出そうとすると足が震える。
頭に痛みが走るような感覚に襲われて、気分まで悪くなる。
壁にもたれてかがんだファリアは、ケープを肘の辺りまで下ろした。
本性ならば、少しはその症状も和らぐような気がして。
白翼が、暗闇に咲いた。
白亜塔の天使は、弟の姿が見えなくなるまで見送っていた。

2・白亜塔の天使 End