5・その日は雨

騎士なら誰でも羨むような俊足の黒馬は、黄樹の横にぴたりと寄り添っていた。
まるで、傷ついた主人を庇うかのように。
小さな林を進む足取りは重い。
「霜…いや、激☆マッハ野郎だもんな……大した傷じゃない、大丈夫だ」
首の辺りを優しく撫でてやる。
初めて乗って爆走に巻き込まれたあの日から、猛々しく、そして力強い目。
それが今、自分を気遣うように見ている。
「俺みたいなのを主人に選ぶから…こんなことになるんだぞ?……いや、俺が強引に主人になったんだ」
返事が無いのは解っていた。それでも、何か言わずにはいられなかった。
耐え難い孤独と緊張感。
周囲には何の気配も感じられない。
もし何かがあるとしたらそれは、敵の兵器だ。
黄樹の銀糸のマントは、所々裂けて赤黒く染まっている。
その染みは、左手と足の辺りに多い。
足取りは時々崩れかけたが、その度に霜月が支えた。
右手に握る剣に力を込める。
それは自分の腕。
そして、だから、左手持ちの李稀は半身。
不意に思い出したのは、太陽のような笑顔だった。
何故だろう、彼はいつも笑っていた気がする。
眠そうな顔や疲れた顔、不機嫌な顔も見たことがあるはずなのに。
出撃の直前、生きて帰ろうと誓った瞬間も彼は笑顔だった。
その時何の前触れもなく、黄樹の足を何かが掴んだ。
ひやりとした感触の後に、焼けるような痛みが込み上げる。
「――――!!」
即座の判断で、黄樹は足元の何かを魔剣で薙ぐ。
それは触手のようなものだった。
南の魔術兵器の一部。
最悪の疑念は真実だった。
敵の指揮官の位置は突き止めたが、そこには大量の魔術兵器が護衛としてなのか配置されていた。
大仰な追っ手が来ないことを考えても、敵側に黄樹の存在は伝わっていないだろう。
恐らく今襲ってきているのは、地中に配置された侵入者排除用の魔術兵器だ。
大きく迂回して戻っているのだから、来たときとは違う。
地中から全貌を表した魔術兵器は、それそのものが枝分かれした巨大な触手だった。
うねりながら同時に向かってくる数本の触手を切り伏せ、一気に相手の近くまで駆け抜ける。
触手の付け根――何本にも枝分かれしているその部分に、青白く光る部分がある。魔術兵器の核とも呼べるその部分に、黄樹は剣を突き立てた。
次の瞬間、まるでそこには最初から何も無かったかのように、敵の姿は消滅した。
少しだけ地面に刺さった剣と足の痛みが、今の戦いが真実であったと告げる。
気が狂いそうだ。
ただ、帰りたい、と。
ひたすらにそれだけを願う。
生きて帰ればきっと、変わらない笑顔の相棒が迎えてくれる。
剣の稽古をしたり。
お互いの思い出話をしたり。
そんなありきたりの日常に戻れるはずだ。
林を抜けると、硝煙が広がっていた。
ここは別の部隊の戦いがあったらしい。
機械兵器の残骸と、自国の騎士の屍。
その中に知り合いがいるかどうか、そんなことは確かめたくもなかった。
下手をすると、彼もすぐにその仲間入りだ。
度重なる機械兵器や魔術兵器との戦いで、ただでさえ出血が多い。
このまま、まだ大分距離のある本隊へ、戦場を抜けて巻き込まれずに帰ることが出来るだろうか。
無事に帰還して、敵の位置を告げることこそが彼に与えられた仕事なのだが。
前を見ても、見えるのは黒煙。
――その中に、動くものを見つける。黄樹はすぐさま剣を構え、それを真っ直ぐに見据えた。
徐々に近付いてくるそれが、敵ではないと解るのにそう時間はかからなかった。
風に翻るマント。
くすんで見えるそれは銀色。
ふらついた足取りだが、その背格好、歩き方。
「――李稀!!」
黄樹は呼びかけて駆け寄った。
「李稀、よかった…」
「……黄ちゃん…?」
嬉しさを隠せない黄樹とは対照的に、李稀はどこか虚ろに瞬きをする。
「…ここは?」
「…え?お前の部隊がここで戦ってたんじゃないのか?」
「……ぶ、たい…」
言いかけて、李稀は体勢を崩す。
黄樹は辛うじて受け止めた。
「大丈夫か!?」
返事は無い。
「李稀、おい李稀!!」
ざっと見たところ、外傷も無い。
しかし、理解しきれない尋常ならざる様子に、黄樹は青ざめた。
だが、取り乱すことはしない。
冷静に、と、その言葉を心中繰り返す。
今の彼に出来るのは、李稀を連れて早く本隊へ戻ること。それ以外に無い。
馬に跨ると、李稀を右手で支え、もうほとんど感覚の残っていない左手で手綱を掴む。
自信と呼べるようなものは何一つ無い。
ただ、必死だった。
「…いくぞ」
黒い風が、硝煙の中を駆けた。


目が覚めると部屋の中で、把握できない状況に眉をひそめる。
見覚えはあった。
出発直前に集まった、国境近くの本隊の待機場所。
李稀は寝かされていたベッドから立ち上がると、今までの経緯を思い返そうとした。
この戦いが始まっておよそ一ヶ月。
その間、機械兵器や時折現れる魔術兵器と戦って。
それから?
どうしたのだろう、何故ここに戻ってきているのか。
何があったのか。意識を失う直前は――
「黄ちゃん!」
思い出したのは、安堵したように微笑む年下の騎士だった。
部屋を出ようと扉を開けると、橙海と鉢合わせる。
「お…はようございます」
その挨拶が適当かどうかは解らなかったが、李稀は扉を開いた妙な体勢のまま告げた。
「目が覚めたか。気分はどうだ?」
「はあ…」
「黄樹が、気を失った君を抱えて来たときは驚いた」
「あ、や、やっぱり黄ちゃんなんですね!?何処に…!!」
「今は別の部屋で眠っている。傷と出血が酷かった」
李稀の顔色が、目に見えて変わる。
「落ちつきなさい、黄樹は大丈夫だ。じきに目を覚ますだろう…それよりも、だ。一体何があった?君の部隊と連絡がとれない」
また、必死に思い出そうとする。
確かに、周りには自分の部隊の人間が居たはずなのに。
いつから自分ひとりだったのか。
「……すみません、ウチにもよう解らんのです…」
その言葉に嘘偽りが無いのを見て取った橙海は、少しだけ穏やかに微笑んだ。
「そうか、まあ、少し休んで落ちついてみるといい」
「…黄ちゃんは、大丈夫なんですね?」
念押しのように尋ねる李稀に、橙海は逆に問いかける。
「何故、そんなに黄樹を気にかける?」
李稀はまばたきした。
聞かれて初めて、答えを探す。
それは多分。
「…ウチが勝手に、友達やと思っとるからです」
「友達?」
「5つ年違うのに友達言うのも変かもしれんのですけど…そう思っとります」
そうか、と短く告げてから、橙海は礼を述べた。
その真意は解らない。
李稀が何か聞き返す前に、橙海は別の騎士に呼ばれて行ってしまった。
とりあえず、言われた通りに休むのが一番だろう、と、李稀は部屋へ戻る。
扉を閉めた瞬間に、右手が瞬間的に痛んだ。
「――っ!?」
気づかず切ったのかもしれない、そんな痛み。
それがまた押し寄せてくることからも、気のせいではないと解る。
そっと右手に触れてみると、熱い気がする。
自分はいつから、そこに指の出る手袋をはめていたのだろう。
利き腕は左なのだから、痛むのが右手で良かったとも思えるが、そういう問題でもない。
身に覚えの無い手袋を、そっと外す。
その瞬間に。
あやふやになっている記憶が全て蘇った。


「じゃかーしいわ、ワレ!!」
あまりの大声に、一気に意識が覚醒する。
それは確かに、良く知っている声だった。
「戦る気無いなら帰れや阿呆!もしくは物陰から白旗振っとれ!!」
「李稀!」
黄樹は大慌てでベッドを降り、戸を開ける。
李稀に怒鳴られていたとおぼしき年輩の騎士は、これは好機とそそくさと退散した。
「あ、黄ちゃん」
気恥ずかしそうに笑い、李稀は頭を掻く。
「何があったんだ?」
「いやー、なんちゅうか…そこらの年寄り騎士がなあ、腹立つことしか言わんから…ちょーっとカッとなってなあ」
「ああ、彼等には…期待なんてしないほうがいい。それよりも良かった…無事だったみたいで。大声のおかげで俺も目が覚めたよ」
「それはこっちのセリフや…っちゅうか大声?」
「ああ、ものすごい大声だった」
「あちゃー……」
からかうように笑う黄樹と、照れくさそうに頬を掻く李稀。
「ああ、そうだ。敵の位置が解ったんだ!今から団長に報告してくる」
また後で、と言って去っていく彼の両手両足には、乾いて黒くなりかけた血が付いた包帯が巻いてあった。
特に左手はそれだけではなく、掌には深く食い込んだ彼自身の爪跡と、擦れた手綱の跡が赤くくっきりと残っていた。
そのどちらともが恐らく自分を運んだときについたものだろうと、李稀は気づく。
去っていく姿を呼び止めることが出来ずに。
李稀は唇を強く噛んだ。
一滴、血が流れる。


かつて、戦地で笑ったことなど無い――断じて。その紺碧の口元が、ほころんだ。
その口の悪さは決して誉められたものではなかった。
しかし戦意の無い騎士を怒鳴りつけた李稀の姿に、胸がすっとするのを感じたのだ。
それはまさしく、自分のやりたいことそのものだった。
何度言い返そうと思ったか。
何度殴りつけてやろうと思ったか。
大した騎士だ、と、李稀の後ろ姿を見てそう思う。
いつの間にか本部にとけ込んで、彼は何かを変えた。
彼が居なかった本部とはどのようなものだったろう。
それが遠い昔のことに思えるほど、彼の印象は鮮烈で。
そう、まるで太陽のようだ、と。
李稀は、そんな人間だ。



その日は、雨。
それでも黒煙は上がり続け、爆音が近くでも遠くでも響く。
その中でも、漆黒のマントは際立っていた。
橙海の双眸は鋭さを増し、立ちはだかる存在を凝視する。
それは、戦うべき機械兵器でも魔術兵器でもない。
「何の真似だ?」
「真剣勝負、してください」
「君と戦う理由は無い。此処を何処だと思っている?」
銀のマントが揺れ、右手が前に出される。
静かに外された手袋の下で、一輪の花が咲き誇っていた。
刺青のように刻まれた、大輪を広げる黒い百合の花の印。
「……黒百合」
「言いたいこと、解りますよね」
「…私を殺すことが命令か………いいだろう」
抜かれたエメラルドの魔剣の銀の刃が、雨に濡れる。
剣士として、騎士として生きることを選んだ故の彼の答えなのだ。
受け止めてやるしかない。
橙海は言い放つ。
「剣を取れ、李稀!」


誰の声もしない。
遠くからの爆音だけが聞こえてきて、不安と焦燥を掻き立てる。
左手はしばらく使い物にならなさそうだ。物を持つ感覚が無い。
掌はいつの間にか傷だらけだった。
黄樹は椅子に座り、窓から硝煙を眺めていた。
身体が重い。傷も癒えていない。
本隊で休め、という指令ももっともだ。
しかし、ここは戦場。
今この瞬間にも傷つき、倒れている者が必ず居る。
何もせずに本隊にいる自分がもどかしくて仕方がない。
死にたくないという思いは確かにある。
しかし、何かせずにはいられない。
自分がこんなふうに思うことなど自分で信じられなかった。
父が騎士で、生活してきたのが騎士団で。
国を守る騎士になるのは当然だと思っていた。
この思いは何だろう。
守りたいのは国ではない。
自分。
家族。
友人。
何より大切な日常のすべて。
―――大切なものは、自分で手にしなければきっといつか失われてしまう。
黄樹は弾かれたように椅子から立ち上がると、拠点の一室を飛び出した。
そのまま外に出ると爆音がより一層強く聞こえた。
「霜月!激マッハっ、来い!!」
すぐさま力強い蹄の音が近付いてくる。
流石に左手で手綱を握ることが出来ず、右手だけでバランスを取る。
団長命令に背くなど、騎士として最低の行為かもしれない。
それでも、自分で自分を止められなかった。
敬愛する父であり団長である橙海か、大切な親友の――半身の、補佐程度なら出来るかもしれないのだから。
馬が駆ける速度は徐々に上がっていく。
まるで初めて黄樹とともに大地を駆けた日のようだった。
ただ、そこは平和だった本部の庭ではない。
生と死、その2つが交錯する戦場。


劣勢は、明らかに李稀だった。
普通に戦っても勝てる気がしない橙海を相手に、痛む右手を抱えて向き合うのだ。
恐らく勝つことなど出来ないだろう。
剣に携わった期間もある。そして何より、死をも厭わぬその覚悟に。
剣を取る者は剣で滅びる、と。
いつもそう思っていることを橙海はかつて話してくれた。
剣を打ち合うほどに李稀の傷が増えていく。
流れる鮮血とともに、身体の力は衰えていった。
「―――!」
斜め下から切り上げられたエメラルドの魔剣を、トパーズの魔剣が受ける。
李稀の右頬に二本目の赤い線がはしった。
押してくる剣を、渾身の力ではじき返す。
一秒にも満たないが、その瞬間に互いの視線が重なった。
生きていたいという思いは、叫びだしたいほどに抱えている。
しかしそれは、死にたくないという思いとは異なっていた。
李稀の望みは、決して目の前の相手を殺すことではない。
次の行動に移ったのは、全くの同時だった。
魔剣の切っ先が、左胸を狙う。
李稀は即座に終わりを悟った。
エメラルドとトパーズの魔剣では、前者のほうがリーチがやや長い。
長い剣は、その分扱いも難しいのは当然のこと。
騎士団にも敵は無く、敵国にも“戦神”と呼ばれる橙海が最期の相手であることを、李稀は心底嬉しく思った。剣士として、騎士として、剣と剣の戦いの中で死を迎える。
これが望みなのだから。
――だが、眼前に広がったのは信じられない光景だった。
エメラルドの魔剣が逸れた。
橙海の左胸に、トパーズの魔剣が突き立つ。
何故、橙海はここで体勢を崩したのだろう?
それはすぐに解った。
それと同時にどうしようもない怒りが込み上げてきた。
橙海の足にからみつく、南の魔術兵器。
迂闊だった。敵の本隊も近いこの場所に、それが無いと考えるほうがおかしい。
ただ、怒りだけが。
もう、何に対する怒りなのかさえも。
「ふ……ざけるな!!!」
李稀は、勢いよく剣を引き抜くと、敵の魔術兵器の核の部分を一突きにした。
空気のように相手が消えても、心臓の鼓動がおさまらない。
自分が相手側について橙海を殺した?
違う。
違う。
そうじゃない。
頭がぐらぐらする。
何をした?
何が起こった?
「裏切り者め……っ!」
近付いてきた足音にすら気がつかなかった。
思考を全て断ち切ったのは、恨みのこもった大好きな友人の声と。
わずかに心臓を逸れた、銀の剣の痛みだった。
こんな最悪の別れ方だけは、したくなかったのに。


雨が勢いを増して、硝煙すら掻き消した。
自分は今何をしたのだろう。
敵本隊へ向かっているはずの団長を追って。
直面したのは騎士に殺される団長で――父で。ああ、その裏切り者を。
この剣で刺し貫いたんだ。
相手が剣を取り落とす動作を目で追いながら、黄樹は驚くほど冷静に自分の行動を思い返していた。
そこで、新たな疑問が浮かんでくる。
だったらどうして、地面に落ちた剣は凄く見覚えのある形をしているんだろう。
どうして裏切り者の後ろ姿は、こんなにも見慣れて愛おしいのか。
「…………李稀?」
そんなはずがない、と、頭のどこかが肯定を拒絶していた。
右手の力が抜けて、剣が下に落ちる。
裏切り者の身体から剣が抜け落ちて、とめどなく血が流れ出した。
倒れてきた相手を支えた瞬間に、絶望的な真実が突きつけられる。
「李稀!!」
僅かに逸れた剣は、彼の命を完全には絶ちきれなかったようだった。
しかし、それが助かる傷だと思える程、黄樹は幸せな人間ではなかった。
抱き起こした瞬間に、李稀の右手の異変に気づく。
「これは、黒百合…」
それは魔術による最上級の呪いの名前だった。
魔術兵器を造り出すよりも更に高度な魔術。
黒百合の花言葉そのままに、相手を縛りつける“呪い”。身体に刻まれた黒百合の印が、術をかけられた者が命令を達成するまで嘖め続ける。
それは全身に広がり、いずれは命を落とす。
魔術の種類については本で一通り学んだ。その中でも最悪の部類に入ると嫌悪とともに覚えていたものだ。
こんなものを容易くかけられる術師が存在するはずはない。
李稀の手の印が本物ならば、その魔術には何人もの術師の命が犠牲になっているだろう。
「黄…ちゃん?ウチは、殺して…もらう、つもりで」
とぎれとぎれに紡がれる言葉に、ようやく黄樹は真実に辿り着いた。
すべては“戦神”を葬る為に。そのために、南の魔術師が来ていたのだろう。
そして橙海と同じく魔剣を手にする李稀に気づいて。
部隊を殲滅して拉致、数人の術師の命と引き替えに、呪いをかけて。
「裏切る…とか、そんなの、じゃ…」
「李稀、解るから!」
彼が、まさか自分たちを裏切って敵側について生き延びようとする人間だとは思わない。
死ぬために。
彼は橙海に戦いを挑んだのだ。
「…俺、俺は………っ!!」
「ええ、んよ…黄ちゃん………ウチは、黄ちゃんを、殺せん…から」
「……え?」
「次の、団…長は、絶対黄……」
彼の右手の黒百合は消えていない。
それはつまり、命令が達成されていないということ。
その命令が“橙海を殺す”ではなく“団長を殺す”ことだったとしたら。次に誰かが就任したならば、また彼は動かなければならない。
「解った…解ったから、もう喋るな!!」
「黄ちゃん…なら、立、派な団長に」
「俺にそんな資格は無い!俺は……」
今更になって、父の言葉を思い出す。
心を乱してはいけない。常に冷静でいなさい。
たったそれだけのことを守れなかった結果はどうだ?
「ウチ、は…だんちょ、ハンを、殺す…気、なんて…」
「解ってる、解るよそのぐらい!」
「黄ちゃんに、だけは、誤解……」
「李稀……解ってるから……」
李稀はゆっくりと、左手を動かした。
その手が、黄樹の右頬に触れる。
「黄ちゃ……そこ、に……?」
「居る、ここにいるから!!」
目が霞んでいるのか、彼が自分を見ているのかどうかも解らない。
李稀は手を下ろした。
「トパー…ズの、剣、黄ちゃん…に……やる、から…」
「…李稀……!!」
どうして。
最期の瞬間まで。
李稀は微笑むのか。
「黄ちゃん…」
雨がまた激しくなって、もう雨音しか聞こえない。
冷たい雨が、体温を奪っていく。
彼の言葉は音にならなかった。
だが、それははっきりと見てとれた。
もう名を呼ぶことも出来ずに。
ただ、赤く染まっていく銀のマントを見ていた。
その時黄樹の頬を濡らしたのは、雨だったのか、それとも。
今までと何も変わらない笑顔で告げられた最期の言葉だけが、巡る。
ありがとう、ごめん。
そう言って、李稀は笑った。



雨の音が煩わしかった。
何が起こったのか、紺碧は全く理解出来なかった。
橙海が死んだ。
李稀が死んだ。
何故そんなことになったのか、それを説明出来る唯一の人物は血の海の中に立っていた。
知らされていた敵本隊の場所で、紺碧が見たものは。
壊れた機械兵器と、ちぎれた人間の手足。血の色。雨。
その中でも輝きを失うことのない魔剣の宝石がふたつ。
「黄樹殿!!」
全身に怪我を負って本隊に居るはずの彼が、物を持てる状態ですらなかった左手にも剣を握り、背を向けて立っている。
右手にも、左手にも、トパーズの魔剣。
両腕の揃った騎士。
黄樹は、持ったままの右手持ちの剣を腰におさめ、敵の指揮官であろう男に刺さっていた左手の剣を引き抜くと、そのままそれで自らの右手を刺し貫いた。
「―――――黄樹殿!!??」
悲鳴にも似た紺碧の呼びかけに答えるように、彼は振り向く。
淡々とした声が、告げてくる。
「…終わりました。今回も俺達の勝ちです」
右手が痛い。
痛いから、忘れない。
自らの許し難い未熟さ。
彼の存在。
「……帰りましょうか」
次期騎士団長候補の少年は。
感情の無い瞳で微笑んだ。

そう、その姿はまるで――――壊れた人形。

End