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4・戦いへの序章 |
才能、だとか。
血筋、だとか。
よく人はそんな言葉で片づけるけれど。
その影には人一倍の努力がある、と。
ありきたりのことに気づいてはいた。
――だが、出会って一ヶ月ほど経った今、初めて目の当たりにした。
「お早うさん、黄ちゃん」
日は、まだのぼりきっていなかった。
薄暗さが、少しずつ明るい朝の色に変わっていく時間。
大分涼しくなってきた夏の夜明けは何処か肌寒い。
他の騎士とも打ち解けて、昨晩は酒を飲んでいた李稀は何となく目を覚ましたのだった。
普段ならば爆睡している時間帯。起きて剣の訓練、など考えたこともない。
呼びかけた李稀の声にトパーズの魔剣を下ろし、黄樹は振り向く。
「お早う」
「いっつもこんな時間からやっとるんか?」
「…ああ、大体はそうかな」
「そうかー…」
感心したように李稀は呟く。
偉いと誉めるのも違う気がするし、まさかそれが当然のことだとも思わない。
「李稀こそ早いな?」
「んー、ウチは風に当たりに来たというか…」
伸びをして、深呼吸する。
「けど、気が変わったからウチも訓練しよ」
言うと、彼は腰から剣を抜いた。
おもむろに始まる素振り。
黄樹は少し休憩でもすることにしたのか、木の下に腰を下ろした。
「早朝訓練もなかなかええなー」
「目も覚めるし、静かだから集中出来るだろ?」
「そやなー」
答えて剣を振る李稀の表情は、だんだんと真剣になっていく。
父とはまた違う、魔剣を手にしたその姿を黄樹は眺めた。
橙海は、戦地で“戦神”と呼ばれる程その名が知れ渡っている。敵国の機械兵器を統率していた人間を、血飛沫をあげて切り裂く姿。
まだ実際に目にしたことはないが、軍事会議などの時に彼が見せる鋭い瞳を見ていると想像がつくような気がした。
機械兵器にも劣らぬ圧倒的な強さ。
今目の前に居る李稀の強さは、恐らくそれではない。
守る者としての騎士の強さ。
頼られる者。安らぎを与える者。
彼は確かに騎士なのだ。
黄樹は少し俯いて、目を閉じた。
晩夏の風が髪を吹き抜けてゆく。
心地良かった。
自分だけの早朝訓練の時間に他の人間が居る――しかし、それすらも。
そこらの飲食店よりは格段に美味いと定評のある、騎士団本部の食堂。
今日の日替わりメニューは魚の味噌煮定食のようだった。
折角だから一緒に朝食を、と、李稀と黄樹は食堂へ来た。
李稀は席取りで、食堂中央のテーブルを陣取っていた。
ちなみに彼の注文は唐揚げ定食。敢えて定番を選択してみた。
およそ6時ぐらいなのだが、既に人が大分入っている。
他国とのいさかいが激しくない頃は、わざわざここに食事に来る一般の人も居たという。
李稀は注文をしに行った黄樹を待ちながら、周囲の騎士を眺めていた。
すっと横切る、簡易な茶のマント。
騎士団本部では珍しい、一番位の低い騎士のマントとその後ろ姿には見覚えがあった。
「りょっぴー」
初めて会った時のように少年のマントを引いて、李稀は呼びかける。
「……」
緑野は足を止めると、嫌そうに顔をしかめて振り向いた。
「お早うさん」
「…お早うございます」
「朝から景気悪い顔しとるなー、りょっぴー」
「………」
彼は敵意を込めて李稀を睨む。
騎士団長に生き写しの彼の眼差しは、少年ながらすごみがある。
「なんやなんや、怒るなってー」
軽く笑う李稀に、緑野は怒る気力すらも失せてしまったようだ。
用事が無いのなら手を離せ、といわんばかりに掴まれたマントを見る。
そのとき、マントに隠れていた彼の左手の辺りで、何かがもぞ、と動いた。
途端に、緑野の顔に焦りの感情が浮かぶ。
「…りょっぴー、手に何持っとるん?」
「いや、別に…」
にゃー。
否定しきらないうちに、愛らしい鳴き声がその正体を明らかにしていた。
「…」
「……ねこ?」
抱えられているのが暑かったのか、子猫がマントから必死に顔を出す。
「か、かわええ…!!」
「…これは、その……」
何と答えようか緑野が口ごもっていると、別の声が乱入した。
「緑野、見つけたわよ」
女性の声だった。騎士団に女性が来ているというのが既に珍しい。
誰だろう、と声の主を探した李稀は、思わず彼女を凝視した。
緑野は何か覚悟でも決めたように、溜息をついた。
美しい女性が、2人のもとへ歩いてくる。
ゆるやかに前へと流れる、束ねられた黒髪。
首元のスカーフと暗い色の長衣が静けさを醸し出している。
穏やかな黒色の目が印象的な美女。
「こんにちは」
彼女は李稀に気づくと挨拶した。
心地よい声はまるで、何か音楽のようでもある。
「あれ、母さん…?」
彼女の正体は、料理を持って戻ってきた黄樹によってあっさりと告げられた。
「あら黄樹、お早う」
こともなげに微笑んで、彼女は言う。
どう対応していいか解らない状況に思わず李稀がマントから手を離すと、緑野はそそくさとその場から立ち去った。
「あ、緑野……また猫持っていかれちゃったわ」
「猫?あいつまた何処かから拾ってきたのかな」
「そうみたいなのよ。触らせて、って言ったら逃げちゃって」
末っ子の隠れた好みが解ったような、衝撃的親子会話。
とりあえず脳内でそう題名をつけてから、李稀は改めて2人を見た。
黄樹は母親似のようだ。もしも彼が女性だったならば、母親にそっくりだったのではないか。
「黄樹、そちらはお友達?」
ふと、彼女はまた李稀を見た。
「友達……まあ、そうかな。新しく来た部隊長の李稀だ」
「そうなの。うちの黄樹がお世話になっています」
「あ、いや、いえ、どっちかっていうとウチのほうが…」
「あら…私は紫杏といいます、よろしく、李稀さん」
「いやー、めっちゃ若いですね!」
微笑む彼女に、李稀は見当違いな言葉を返した。
黄樹は吹き出し、紫杏は素直に礼を言ったりする。
「李稀、でも母さんの年35だし若づ…」
「何か言った?」
「いえ、何も」
その笑い顔に何か底知れないものを感じたらしい黄樹は口をつぐんだ。
今度は李稀が大笑いする。
騎士団で将来有望トップに居る彼でも、母親が怖かったりするらしい。
「紫杏さんって、普通に考えて団長ハンの奥さんですよね?」
「ええ、そうよ?」
「や、お似合いやなーと思いまして…」
「あら、ありがとう」
橙海が何故彼女を選んだのか、何となく解るような気がした。
騎士団長の妻として相応しい何かを、彼女は確かに持っている。
紫杏はそんな女性だった。
「それじゃあ、私は橙海の所へ行ってくるわ。お邪魔してごめんなさいね、黄樹、李稀さん」
食堂を後にする紫杏を見送って、ようやく黄樹は椅子に座った。
「いやあ、綺麗なお母さんやね、黄ちゃん」
「そう…なのかな」
「何言っとんねんー、めっちゃ美人やん」
家族のことを誉められるのが気恥ずかしいのか、黄樹は苦笑する。
「昔は母さんもここに居たんだけど、戦争が激しくなってからは麓の街で暮らしてるんだ。たまにこうやって遊びに来るんだけど…」
そういえば、と、彼は切り出した。
「李稀の家族の話は聞いたことが無いな」
「ああ、そういえばそうやなー…っても、母親はウチがガキの頃に死んでまったから殆ど覚えとらんし、父親には剣とか色々教えてもらっとったけど、やっぱり早死にしてなあ」
「……」
「ウチの出身は西方の田舎の村やから、みんな良くしてくれとったんよ。そやから、ウチの家族っちゅーたらあの村のみんなやな」
「そうだったのか…」
そういう人間関係は、黄樹には想像出来なかった。
彼の家は、この騎士団本部と言ってしまって良いようなものだ。
いつ、誰が欠けるかも解らない。
隣に居る大多数は他人、そう思ったほうが気が楽だとすら思える。
自分と李稀は、これほどまでに違う道を歩んできたのだ。
それが今、こうやってテーブルを挟んで向かい合っている。
不思議な感覚だった。
騎士団本部団長室は静まり返り、重い空気が漂っていた。
橙海と紺碧、そして副団長を含む数人の男――いずれも橙海より年長者だ――が、大きな机を囲んで座っている。全員が深刻な面持ちで頷き、それが会議終了の合図でもあった。
出ていく年長の騎士達と入れ替わりに入ってきたのは紫杏。
紺碧以外の騎士が退室して、扉が閉まりきると、橙海は深く溜息をついた。
「お帰り、紫杏」
安堵したような微笑みは、信頼する者に見せる素顔。
「お疲れ様でした、橙海様」
苦々しい表情で、紺碧がねぎらいの言葉をかけた。
紫杏は、先程まで騎士が座っていた長椅子に腰を下ろす。
「…その様子だと、また大変な会議だったみたいね?」
「ああ…彼等と話すのは疲れる。自分の保身を第一条件に置いて、その上で騎士の配置を持ち出して来るのだからな。まず意見が合わない」
「どんな会議だったのか聞いていたかったわ」
「やめておいたほうがいい。きっと彼等を殴りたくなる」
皮肉で言った紫杏に、橙海は心底疲労したように答えた。
「……今出ていった人達の顔色を見ていて解ったけど…また、始まるのね?」
「そうだ…先程、東支部から連絡が入った。国境近くに敵国の機械兵器が確認されたそうだ。これから部隊を編纂して、明日にでも出発する」
「そう」
紫杏は美しい顔を曇らせる。
どれだけこのような場面を越えてきたのか、表情とは裏腹にその瞳は強い。
「東と南が連携しているという話もある…今回は、いつものようにはいかないだろう」
橙海は机に広げた地図や殴り書きのメモをしばらく眺めると、尋ねた。
「……黄樹が何処に居るか解るか?」
その名前を出した意図は、2人にも薄々感じ取れた。
しかしどちらも、そのことに意見はしない。
「さっきは食堂に居たわ」
「…私がお呼びしてきましょうか?」
「ああ、そうだな…頼めるか?紺碧」
「はい」
一礼して、彼は出ていく。
扉が閉まると、いやに静まり返ったような雰囲気だけが流れた。
遠ざかる足音と時計の音。
「橙海」
名前を呼ぶ声は小さかったが、それすらも普通の大きさに聞き取れる。
「……帰って来て。ちゃんと、ここに」
彼女はいつもそれしか告げない。
今までもずっと。
これからも、きっと。
「勿論、そのつもりだ」
そして彼も、そう答えることしか出来ない。
それは決して確約にはなり得ないのだから。
持久力抜群の素晴らしい黒馬は、一ヶ月前と何も変わらずに恐ろしいまでの早さで庭を駆け抜ける。
「黄ちゃん、気いつけぇ!!落ちたら終わりやー!」
声は馬上の黄樹に届いているのか、それすらも解らない。
黄樹は左手でしっかりと手綱を握り、そして、右手でトパーズの魔剣を抜いた。
冷たい銀の刃が馬の首元に密着する。
「……馬刺になりたいか…?」
押し殺した低い声。
その内容を、爆走する馬が理解できたと思う方がおかしい。
だが、ある意味極限状態の必死さの中で紡がれた強い声と、金属の剣の冷たさは、馬の速度を落とさせるのには十分だった。
他を凌駕するスピードはいつしか歩みになり、そして止まった。
「と、とまった……?」
何が起こっているのかまだ信じられないといった様子で、黄樹は追いかけてきた李稀を見下ろす。
「ほら、動かしてみい!」
言われるままに黄樹は手綱を取り、霜月を乗馬訓練場へ向かわせようとした。
馬は、従うのが当然とでも言うように力強い歩みでそちらへ向かう。
「黄ちゃん、やったやん!!」
「李稀の助言があってこそだよ」
馬を止め、地面に降り立った黄樹を李稀が迎えた。
傍らに立つ黄樹に、霜月は擦り寄る。
「おお、黄ちゃん懐かれとる!!」
「ああ、そうみたいだな…それにしてもいい馬だ、この霜月」
「ウチが今まで見た中でも一番やと思うよ。何より早さがありえんて……」
霜月をじっと見た李稀は、悪戯を思いついた子供のようににやりと笑った。
「そや、その早さを讃えて…今日から霜月は“激☆マッハ野郎”に改名や!」
「な、げ、激マッハ…?いくらなんでもそれは…」
どうだろう、と黄樹が言うより早く、霜月改め激☆マッハ野郎は李稀にも擦り寄った。
「ほら、気に入っとる!」
いいのかそれで、と馬に言ってやりたい気分になる。
心に風が吹く気分とはきっと今のことを言うのだろう。
「――黄樹殿、ここにおられましたか」
「紺碧さん」
慌てたように走ってきた紺碧は、用事よりも先に霜月を見て顔をこわばらせた。
「…黄樹殿、その馬が私が以前にお話した…」
「霜月、ですよね」
「ちゃうて黄ちゃん、激☆マッハ野郎やて」
「…まさか、お乗りに!?」
李稀の訳の解らない言葉は無視して、紺碧は恐る恐る問う。
「ええ。いい馬ですね。何とか乗りこなせるようになりました」
「まさか…いえ、疑っている訳ではないのです…しかし、一体どのように…」
その言葉を聞くなり、黄樹と李稀は顔を見合わせて笑った。
「な、何です?」
「敢えて言うなら、“武力を以て制す”ですかね」
「それなんですよねー」
「どういうことかは良くは解りませんが…黄樹様、橙海様がお呼びです」
肩をすくめて、紺碧は少し呆れ顔になる。
彼はこのような言動をする人間だっただろうか。
自問してみても、答えは否だ。
黄樹は、おおよそ子供らしくない子供だった。
騎士団本部という環境で育ったのが原因か、偉大な父親へのプレッシャーか。
大きいのは前者かもしれない。そうせざるをえなかったとでも言おうか。
しかしそれが今はどうだろう。
今の黄樹は、15歳の少年に見える。
彼は、この一ヶ月あたりで目に見えて変化したようだ。
それが決して悪いことではないと、紺碧も解っていた。
しかし、次期団長候補として、黄樹の子供らしくない部分に期待していたのもまた事実。
複雑な心境だった。
「…団長が俺を?解りました、すぐに行きます」
「お、今から行くんか?」
「ああ、できれば霜」
「激☆マッハ野郎や」
「………げ、激マッハ野郎を小屋へ戻してやってくれないか?」
「りょーかい、ほな行ってらっしゃいー」
笑って手を振る李稀を見ながら、紺碧は、黄樹を変えたのが何であるのか解った気がした。
騎士団本部中に出撃召集がかかったのは、その直後だった。
「…失礼致します」
団長室に足を踏み入れることは滅多に無い。
李稀はたまに、驚いたことに遊びにきているというが、黄樹はそんなことをする気にもなれなかった。
極度の緊張が襲ってくる。
「まあ、座れ」
長椅子に腰掛けていた橙海は、自分の向かいに座るよう促す。
「出撃召集がかかっているようですが…」
「指示は紺碧に任せてある。すぐに行かなければならないが」
「…用事とは何でしょう?」
「今回の戦いのことだ」
あくまでも上官としての儀礼的な態度。
だが、黄樹は目の前の相手にそれ以上を求めようとはしなかった。
それこそが望む対応―一人の騎士としての扱い。
「今回、東と南が提携した可能性が強いという話は聞いているか?」
「…はい。最悪のパターンですね」
「そう、最悪だ。こちらとしても手を打たなければならない」
黄樹は静かに次の言葉を待った。
ほんの数秒の間だったが、それは酷く長かった。
「…黄樹、お前に敵の指揮官の位置調査を命じる」
それは死刑宣告にも似ていた。
感情を表さない目が、真っ直ぐに見据えてくる。
実際に戦地に赴く東の国の軍人は数少ない。
機械兵器を送りこんでくるのが敵の主な戦法であり、居る人間といえば機械のメンテナンス要員、そしてこちらの動きを見て機械兵器に指示を出す相手の指揮官だ。
「………」
咄嗟に返事が出てこなくて、黄樹は黙るしかなかった。
しかし、団長のその判断は正しいのだろう。
南の魔術兵器がそこに加わる可能性があるのだから、そこに行くのは魔剣を手にした黄樹が妥当だ。
橙海自身は常に軍の先陣に居るし、李稀は部隊長として持ち場に着く。
「解っているとは思うが、この配置に私の個人的な感情は関与していない」
橙海はつけ加えた。
その配置が決して優遇ではないことは解っている。
寧ろ、何よりも危険な配置である。
この配置は、騎士としての力を買われた結果なのだ。
「了解致しました」
ややあって、黄樹は答えた。
部屋を出ようと椅子を立ち、扉の取っ手に手をかける――それとほぼ同時だった。
「黄樹」
呼び止められて、彼は顔を向ける。
「もうひとつ……これは父親として、言っておきたいことがある。聞いてはもらえないだろうか?」
「何…でしょう」
黄樹は取っ手を離し、振り向いた。
そのまま、視線がぶつかる。
「…敵を前にして、決して心を乱してはいけない。常に冷静でいなさい」
言い難そうに、橙海は口を開いた。
父親としての言葉を選んでいるようだった。
穏やかに、どこか諭すような口調。
「お前は確かに騎士として成長してきた。だが、まだ若い。…酷かもしれないが、戦場で必要とされるものはそれだ。自分がなすべきことは何か、そのことを考えて行動しなさい。その場の感情に流されるようなことがあってはいけない。……例え目の前で友が死ぬようなことがあっても」
騎士団長ではない橙海の言葉にどこか違和感を覚えながらも、喜びを感じている自分に黄樹は気づいた。
「心得ました」
短い言葉は、力強く。
地獄の始まりへ向かう意志を宿していた。
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