3・特別な誰か

奏香に四葉が滞在して1か月。
机に向かう生徒たちに戦慄がはしる時期がやってきた。
年に3度行われる、生徒がどれだけ授業を理解しているかの調査。
要は一言でいうところの定期試験だ。
学校の方針が一様でないため各学校で形式に差はあるが、統一して行われるのは筆記と実技の試験。
奏香魔法学校での筆記試験では瀧、ナズナ、四葉の作成した問題3枚を生徒たちは解くことになる。
例年ナズナの問題は基本理解、瀧の問題は中レベル、そして残る1人が応用問題、という方式になっていた。
その応用問題を四葉が担当することになる。
緊迫した空気の中、ほぼ真っ白なプリントを見た瞬間、生徒たちはまずもれなく硬直した。
四葉クラスも例外ではなく、配られた用紙を見た生徒たちの手が止まる。
「どうした?」
「先生、これ…?」
「問題だが」
「読めないんですけど」
「頑張れ」
白紙のプリントの上部には名前を書く欄と、魔術文字が十数個並んでいた。


「さすが四葉というか、またとんでもない問題作ったね、君は」
瀧の第一声はそれだった。
「見ただけで実力の解るなかなかの試験問題だと思ったが」
「まぁ確かに。『自分の可能な域で最も高度な魔法を図説しろ』ね…。普通は思いつかないよ」
「これ、読めなかった生徒絶対いますよねー。…あ、四葉先生宛のラブレターだし」
「甘いよナズナ。こっちなんてミルクシチューのレシピが書いてあるんだから」
瀧とナズナは珍解答を探し始める。
「文字を理解して完璧な解答ができるのは数人だろう。難しい解釈をして悩みながら答えるのはおおよそ半数、それ以外は白紙か適当…という予想だ」
「当たりだね、四葉。大体そんな感じだよ…これはすごい。教科書の内容の暗誦文が 書いてある」
「瀧先生、この絵この前のアメーバじゃありません?」
和気藹々とプリントをあさる2人を見て溜息をつく四葉。
「採点するからいいかげん返せ」
とは言っても、既にばらばらになった解答は揃えるだけでも一苦労なのは目に見えて解っていた。


応用問題のテストの解答率がすこぶる悪いのは珍しくもないので、生徒たちはさほど気にかけてはいない。
だが今回は言い表すことのできない疲労感が残ったのは確かだ。
「梨真ー。何でそんなに嬉しそうなのよぅ」
「今回の筆記、かなり出来がよかったんだ」
「梨真はいつもトップクラスじゃないー」
「今回は応用も解けたの」
誇らしげに梨真は笑ってみせた。
数人の少女たちが羨望の眼差しを向ける。
「えぇー!だって、『魔法の構造式』なんてどうやって勉強したのよぉ」
「教科書にはのってたけど、授業で詳しくやってないし…」
「…『構造式』?」
梨真は鞄から分厚い辞書を取りだし、ページをめくる。
「ほら、『図解』でしょ?単語似てるけど」
テスト問題と全く同じ『図』と『説明する』という単語を認めた少女たちは奇声をあげた。
魔法の構造式、すなわち古代の魔導士が自らの魔法を書き記した魔術文字をふまえた文章を書けなどどいう問題は、最も難易度の高い鳳梭魔法学校でも出題されたことはない。


日がとっぷり暮れた頃、四葉は朱のインクのペンを置いた。
正しく問題を読みとった者には10、構造式もどきを書いた者には5、その他は3、白紙は0の基本点として、後は好感点で10点満点で加点した。白紙がいなかったのはそこそこ頑張った証拠だ。
まさに十人十色の解答となり、それだけに採点にかかる時間も倍以上である。
翌日の実技試験もまた、『自分のできる最も高度な魔法』であり、四葉のテストは最終確認として役に立っただろう。理解できた者に限られるが。
そして数十枚の紙を整えた四葉は、何の前触れもなく顔を強張らせた。
この突然の威圧感は何だというのだろう。冷や汗が頬を伝うほどの。
「――――……っ」
不意に目眩を覚え、四葉は机に体重をかけた。
それは決して心地よいものではない。
自分は相応の何かをしただろうか?そんなはずはない。
仮にあったとしてもここまで――姿が見えない距離でさえ感じる殺意を向けてくるのはただの馬鹿だ。そしてただの馬鹿だけならばよいのだが、背筋が寒くなるほどの魔力であることは確か。
だからといって大人しくやられてやるほど優しくはない。
最も不可解な点は、それが本当に突然であったことだ。
これほどの殺意と魔力、ここまで近づく前に気がつかないはずがない。
いや、むしろ遠ざかっていく。
これではまるで――――
(今、この瞬間に生まれたようじゃないか…?)
そこまで数秒で思索を巡らせてから、四葉は紙の束から一枚を抜き取った。
その答案は今回の最高得点。
気がかりな点を忠告しておこうと思っていた矢先だ。原因は彼女に間違いない。
そして、それとは違うかなり強い魔力を感じて、四葉は何か言うのを忘れた。
「――四葉!頼む、手伝ってくれ」
窓を開く強風、耳が痛くなる雑音は羽音。
恐らく四葉の頭と同じぐらいの大きさの目は真紅。縦に細い瞳孔は黒。
夜闇にとけこむ巨大な体躯は深い青で、背には一対の翼。
1年前、いや2年になるのか。全てが変わった過去の日の記憶を引きずり出すように――そこに存在するはずのない飛竜は、たしかに存在していた。そしてその背に乗っているのは、竜の眼と同じ色をした長髪をはためかせる瀧だった。


「…つまりは魔力を媒体に物質を練り上げる、と?」
「そういうことだ。お前の話が正しいとすると、本体は土」
細長い炎が手前の木だけを正確に焼き尽くす。
「それは解ったよ。確かに可能だ…だからといって、なぜ」
「練ったものを動かすには2通りある。ひとつは自らが魔力で操る。もうひとつは、それ自体に意志を与える。もちろん後者の方が有益で危険も伴う」
「だけど、どうやって?」
「“招喚術”の応用だ。実体ではなく意思だけを呼び出す。何が危険かって実体がないのだから呼び出すイメージがない。呼んでみるまで解らない、という訳だ」
飛竜は大きく右折した。翼が木々をへし折る。
「…近いね」
舵をとる瀧が呟いた。
「近い。…そして森を飛竜で追わなければならないほど早い。ここから考えても宿った意思は」
「“悪魔”は強い魔力に引かれる。君も十分気をつけたほうがいいよ」
「ああ、解っている」
四葉は意図的に――馬鹿な土狼がやったのと同じように、魔力を強めた。

追ってきている。逃げても無駄だ。それは解っている。
だがここで立ち止まれば、その瞬間に死ぬことになる。
完璧な理論のはずだった。何一つ間違いなどなかったはずだ。
それがまず学校を襲い、そして自分を追いかけてくる。
どうしようもなく悲しくて恐ろしいが、涙は出てこない。
喉が乾く。息がきれて、足がもつれる。
もう、無理だ。すぐそこにいる。そして自分では敵わない。
――何というものを造ってしまったのだろう。
後悔だけが頭をまわり、だからといってどうすることもできない。
梨真は、地に座りこんだ。立つことができず、足も動かない。
それは、低く唸った。
土を練り上げて造り出した“狼”。ほんの思いつきだった。テストの前に試してみたかっただけだったのに。
飛びかかってくるはずの狼は、だが、唸り声をあげるだけしかしない。
ゆっくりと、梨真は後ろを振り返る。
狼は自分に背を向けている。そして、声がした。
「下等悪魔、とっとと元居た世界に戻れ」
聞き覚えがある。四葉の声だ。
「…それとも何だ、思考能力もない程愚かで下等なのか?」
少しだけ安堵感を得るが、同時に不安もつのる。
“悪魔”と四葉は言った。それも下等、と。下等な者は知恵はないが力は強いと、本で読んだことを思い出したのだ。
「愚かで馬鹿ですこぶる下等な意思しかない脆弱な土野郎、かかってくるなら早くしろ」
冷たい言葉が終わると同時に、狼は大きく雄叫びをあげて声のする方へと突進する。
「――せんせ…!!」
梨真の声を止めたのは、目映い閃光だった。
咄嗟に目を閉じはしたが、開いても何も見えないだろう。
なにせ暗闇の中だ。白い光はより強い。
狼が苦悶の声をあげたのを聞くや否や、体が持ち上がった。
(…あったかい)
状況に大差ないが安堵感がいくらか増す。
「四葉先生…ですよね?」
目を開いてみるが、やはりあまり見えない。
ただ、どうやら自分が抱き上げられているらしいことは解った。四葉が答えてくる。
「…すまない、君に知らせる方法がなかった。目を…」
「大丈夫です。ありがとうございました」
「やはり下等な奴のようだ。あんなろくに考えもしなかった挑発に乗ってくるとは」
「いえあの、けっこう心に刺さること言ったと思いますけど。図星っぽいですし」
「…そのくせ、なかなか強いというのが割に合わん」
「…え?」
「今のは攻撃でもあったつもりだが、目眩ましにしかなっていない」
四葉が体の向きを変えたのが解った。
狼の魔力は消えていない。そのことに気付くのが遅かったのは四葉の傍にいるからだろう。
1か月彼と過ごした中でも感じたことがない程強い魔力は、抑制していないからだ。
強い魔導士の場合、むやみにそんなことはしない。周囲が恐怖に青ざめる。
四葉も十分すぎるほどそれに値するが、それよりも安心感が強かった。
力を込めて地を蹴る音がする。狼が向かってきたのだ。
「――――導け、雷鳴の唄」耳をつんざく轟音が大地を揺るがす。
「先生、今の…」
「…はったりだ。雷系魔法に適当な言葉をつけた。しかも効いている。やはり下等だ」
風の音がする。四葉は横に跳んだらしい。
挑発、はったり――四葉ほどの魔導士がそんなものを使うということは、様子を見ているか効果的な対処法がないか。前者であることを梨真は願った。すぐ傍で、魔力の高まりを感じる。激しい水音がした。
狼の悲鳴が聞こえるが気配は消えない。
突如、四葉の腕に力がこもった。そして身を翻したらしい。
ほぼ同時に鈍い衝撃が伝わり、梨真の体温は急激に下がった。
小さな呻きがしっかりと耳に届く。
「先生っ!?」
「かすった。気にするな。それよりも、だ」
「…?」
「奴は水で崩れて地面を取り込んで巨大化した」
こちらに放たれた第二撃、それも恐らく魔法――と、魔法がぶつかる。四葉が打ち消したのだろう。届いてこない。
「…やってみるか」
呟きを聞く。そして周囲の温度が上がった。
赤いものが目をうっすらとかすめる。だんだんと視界が広がっていく。
すぐ近くにあった四葉の表情は真剣そのものだった。
目の前で練り上げられていくのは魔術の炎。
狼が少し後ずさるのがゆらめきの向こうに見える。
大きく空に炎が広がった。
(…竜、だ)
それはまさしく、本などでよく見かける竜の姿だった。
力強い翼で宙を舞うその姿。
炎竜は狼へと急降下する。苦しげな声が夜闇を裂いた。
それでも必死の狼は抵抗をやめようとしない。
膝を折り、小さく舌打ちした四葉が次に何かするより早く、放たれた氷の刃が狼を打ち砕いた。
焼かれた土は冷やせば崩れる、と、この状況で梨真が思い出せたのは奇跡だった。


「ちゃんと見えるか?」
「はい。…あの、先生、学校のほうは?」
梨真は震える声で聞いてきた。今になって恐怖が押し寄せてきたのだろう。
「心配ない。襲われたのはナズナらしいが、何とか追い払ったと瀧が言っていた」
「瀧先生は…?」
「無茶な招喚をやらかして体に負担がかかったようだから、俺が強制送還した。少し休め ばよくなるだろう」
「そう……ですか」
梨真の天色の瞳から大粒の涙がこぼれた。
面食らった、という訳ではないが、四葉はやや戸惑った。
「先生、ごめんなさい…腕っ……」
小さな手が破れたローブの袖をつかむ。
痛みが全くない、と言えば嘘になるが、耐えられないものではない。血が流れているのは仕方のないことだとしても。
うつむいている彼女の頭に、かがんで手をおいてやる。
梨真は抱きついてきた。よほど怖かったらしい。
「ごめんなさい、ごめんなさい…もう二度としませんっ……」
「梨真」
ふと、彼女の名を初めて呼んだことに四葉は気付く。だからどうというのでもないが。
「俺は、お前のやったことは別に何も間違ってはいないと思う。今回は失敗しただけだ。違うのか?」
「……でも」
「正直、生徒の中にあんなものを造り出せるのがいるとは思わなかった。お前はすごく優秀な生徒だ。ただ、それは少しの失敗でこうなってしまう。だから次に試すときは誰かについていてもらえ。瀧もいればナズナも、俺もいる」
「……」
「魔術は高度なもの程危険も伴う。基本だがそのことは忘れないように。解るな?」
小さく頷いた梨真の背を、軽く四葉はたたいてやった。
梨真はそのまましばらく泣きじゃくっていた。
翌日、テストの延期を期待していた一部の生徒を裏切って実技試験が行われた。
最高得点をおさめたのは、やはり梨真だった。


何か理由がある訳でもなく。
――いや、用事はあるのだ。急ぐものでもないが。授業は十分進んでいた。今日1時間分開けたからといって遅れることはない。
四葉は椅子にも座らずチョークをとると、おもむろに黒板に何か書きだした。
それは魔術文字だった、一単語だけ。
すぐにその意味を理解した生徒たちは何故か頷く。
それは四葉の一番最初の授業と全く同じ内容だった。
「あまり騒ぐなよ」
言い残し、四葉は静かに出ていった。
近くの席の者と不思議そうに首をかしげあった生徒たちだったが、すぐに各自『自習』を開始した。
廊下を少し歩くと、瀧の意味不明な悲鳴が聞こえてきた。
四葉は遠目に瀧クラスを覗く。
「い、今4時間目だよね、間違いないよね?」
「そうだよ、たー先生。何言ってんのー」
「あ…ああ…昼のパン買うの忘れた!!」
「またー?」
どっと笑いがおこる。
「捺花おばさんのパン屋の“でりしゃす?恋のチョコバナナカスタードプリンパン”は人気商品だから、2時間目が終わってすぐ買いに走らないと売り切れるんだよ…」「たっきぃ、いっつも学校抜け出して買いにいってるの?駄目じゃん」
「だっておばさんのパンはおいしいじゃないか」
「瀧先生、僕それ今日の朝二つ買ってきたから一つ売ってあげるよ」
「たー先生、顔がシリアスなんだから悲しげにしてたら洒落になんないよー」
「元気だして、たっきぃ!」
明るいその雰囲気に思わず微笑み、四葉はそこを通り過ぎた。
学校の外に出ると、なにせ授業時間。辺りは静まりかえっている。
空は美しく澄んでいた。ひとかけらの雲もない。
ささやかな風の音が、赤く色づきかけた木々の間から響く。
まだ緑の草が残っている校庭の片隅の木陰に、四葉は腰を下ろした。
何ともなしに月日は流れ、何ともなしに時は過ぎていく。
鳳梭にいたころからは考えられないほどの平穏な日々。
悠久と錯覚してしまいそうなゆったりとした時間。
何かが嘖める。このままでいいのか、と。
「あれ、四葉先生?」
目の前を、光をあびて金にも見える淡い黄色の髪がかすめた。
「何やってるんですかー?」
木の後ろから姿を現したナズナは、四葉の横に座る。
「生徒たちは自習中だ」
「うちのクラスもですよ。課題出したら終わらないから1時間欲しいって」
会話が途切れた。四葉はただ蒼天を見上げている。
風が吹き、草を軽く薙いでいった。夏の名残。
「そうだ、四葉さん」
ナズナは四葉の横顔を見て言った。四葉は視線を少し向ける。
「……私のこと、避けてません?」
「いや、別に」
「いいえ、絶対に避けてます!」
「…お前が俺に敵意を持っているからそう感じるのだと思うが」
「…は?敵…え?」
呆然と呟くナズナ。
「7、8年前学校に通っていた頃、お前は廊下を歩く俺の真上から何の前触れもなく落下し、名前を覚えていろと言っただろう」
「えぇと…ああ」
ナズナの顔が少し赤くなるが、四葉は気がつかない。
「突然背後ならぬ頭上をとられ、あれは中々屈辱だった。とりあえず敵対宣言ととれたが」
「違います。あれは憧れの四葉先輩と親しくなりたくて、でも話しかける機会がないから作ろうと…本当は前に移動しようと思ったんです」
「それから2月の…中旬。私の気持ちだとか言いながら、お前は俺に茶色の液体をあびせかけた。あれは挑戦状がわりではなかったのか?忙しかったので無視したが」
「…それも違います!先輩が好きだったからチョコレートを贈って告白しようと思ったんです!何故か溶けてるのに気付かず、しかも転びかけてそうなっただけです…」
「好き…?あれは好意だったのか?」
今度は四葉が呆気にとられた。
「全く気付かなかった。はっきり言えばいいものを」
「…四葉さんって意外に素直ですよね。律儀に私の名前覚えててくれてましたし」
「誉め言葉ということにしておこう」
ナズナは溜息混じりに笑う。
「だから四葉さんって生徒たちに人気あるんですよ」
「…そういうものか?」
「そういうものですよ」
チャイムが授業の終わりを告げた。


夜の学校は一般に暗く、気味が悪いものとされる。
明かりの灯っている、しかも人の2人いる職員室は例外だが。
四葉は机に肘をつき、そこに手を置いて、ぼんやりと光を見つめている。
「四葉、元気がないよ?どうしたんだい?」
隣の机の瀧へ顔を向け、四葉は答えた。
「…平和だな」
「それが今の問いに対する君の的確な解答だと言いはるなら、休むか病院に行くかしたほうがいいと僕は思う」
「俺が平和でいいと思うか?」
「……君が僕にそんなことを聞くのは珍しいね」
「おかしいか」
「そんなことはないと思うよ」
四葉は椅子をまわし、瀧と向かい合う。
「まぁ、僕は君に話があって呼んだ訳だけど」
「その割に3時間遅れたがな」
「明日の僕の昼食に関わる重要な問題がね……ごめんよ、謝る」
四葉に睨まれた瀧は慌てて言った。
「で、何なんだ?用件は」
「…この前の梨真の件で、森の三分の一が全焼したことに関してなんだけど」
「………」
原因が炎竜であることは疑いようのない事実である。
「鳳梭から…駿模さんから連絡が来てね。当事者に会いたいそうだ」
「俺だな」
強張った表情で四葉は呻く。
「四葉、君は鳳梭に戻るべきなんじゃないかな」
「俺はクビということか?」
「違うよ。…駿模さんは、きっと君だと気付いているから言ってきたんだ。忙しい人なのは君がよく知っているだろう?咲那の件もあるし。君だろ?あれは」
「…そうだ」
「それだけじゃない。何があって今があるのかは知らないけど、君は駿模さんの唯一のご子息だ。彼の跡取りは君しかいないことぐらい解っているはずだろう?」
「解ってる」
視線をはずした四葉を、瀧はそのまま見続ける。穏やかな瞳で真っ直ぐに。
「解ってる…少し前に小さな村で異国の者と会ってからずっと考え続けている。第三者でさえ解るんだろう。俺が何をするべきか」
「解ってるなら、君は大丈夫さ」
瀧は微笑んだ。
「君は、僕の憧れだった。むしろあの頃のほとんどの生徒のね。よく休みの日に図書室にいる君を見かけては、僕も刺激されて勉強したね」
「そうなのか?」
「そうさ。君はまわりに関心がなかったというか…全然知らなかったみたいだけど。だから僕の人生の中で君に出会えたことは最大と言っていいほど良いことだったと思うよ。今の僕がここにいるのはそのおかげだからね」
逸らした視線を四葉は戻す。
「君にとってはきっと、その異国の人との出会いなんだろう。自分のこれからに何かのきっかけを与える出会いさ」
見たこともないほど色素の薄い、そして美しい彼の銀髪は深い夜空の色をした瞳とともにしっかりと脳裏に焼き付いている。
出会ってきたあまたの人々の中でもとりわけ鮮明に、彼のことは覚えているのだ。
ほんの数日間だけともにすごした彼を。
「…そうかもしれないな」
ややあって、四葉は答えた。
「これだけは言っておくけどね、四葉。僕もナズナも生徒たちも、きっと君が好きなんだよ。そしてだからこそ思うんだ。君はここには勿体ないよ」
「俺がここにいる原因はお前にあると思うのは気のせいか?」
「それを言われると辛いんだけどね」
苦笑した瀧に、四葉は告げる。
「ありがとう」
「?」
「好きだと言ってもらって礼を言うのは間違いか?何故そんな顔をする」
「君は実は素直だよね」
「先程ナズナにも言われたが、それは実は嫌味か?」
「誉め言葉だよ」
「そうか」
四葉は瀧に背を向け、立ち上がった。
「四葉?」
「瀧。俺は鳳梭に戻る」
「まさか今から?生徒たちには…」
「必要ない」
瀧はそのまま出ていく四葉を、何も言わずに見ていた。
言えなかっただけかもしれない。
別れの挨拶も、再会の約束も。