2・かつて見た夢

そこが気になったのは、簡単な理由からだろう。
今更かもしれないが、忘れかけていたかつての夢を追うのも悪くない、と。
頭の片隅で思い始めた――ただ、それだけの。 


その奏香という小さな村は長閑で辺鄙だった。
彼の実家とは天と地程の差が明らかにあるが、彼にとってはどこか好ましい。
彼が数週間前に滞在していた村と、どことなく雰囲気が似ているからかもしれない。
長い前髪を少しだけ掻き上げて、彼は空を仰ぐ。
蒼天を、鳥が舞っている。
長身、そしてそれを引き立てる黒髪、黒服。
彼はその景色の中で異彩を放っていた。
水晶の輝きを映したような淡い緑色の瞳が何かをとらえ、彼は歩みを止めた。
「――――」
何かを言おうとするが、それは言葉にならない。
暖かな昼の日差しを受けて、その建物――魔法学校はそこにあった。
数秒見つめてから、彼は踵を返す。
奏香で一泊することに決めた。よって、宿を探さなくてはいけない。
不意に足音が聞こえ始める。
「すいません、そこの人――」
どうやら自分が呼ばれているらしいと気付き、彼は振り返った。
誰かが学校から走ってくる。
銀糸の紋様の黒いローブ。彼も知っているそれは、魔法学校の教師のものだ。
向かってくるのは男らしい。
現れただけで辺りが明るくなるような、鮮やかな真紅の髪。それも恐らくはその男の身長よりも長い。
それを引きずっていないのは、左肩にかけているからだ。
男の瞳の色が真黒だ、と解る距離まで来たとき、彼は妙な違和感を覚えた。
違和感と言うよりかは、むしろ既視感と呼ぶべきか。
「ああ、やっぱり!君、伽代だろう?伽代四葉」
男は彼―四葉の前に立つと、息をきらしながら言った。
既視感、ではない。確実に会ったことがある。
――だが、男の名前は出てこない。
「僕だよ伽代。樹沙羅――」
「――――瀧?」
ほとんど無意識に四葉の口は動いた。
樹沙羅 瀧。かつての同級生だとすぐに気付かなかったのは、大した付き合いがなかったからだろう。
「そうだよ伽代!いやー、久しぶりだ…何年だろう」
「…さぁ、10年前後」
「うん。君は昔から素っ気なかったね」
瀧はそう言って笑う。
美しい顔のつくり――例えるならば高確率で非業の死を遂げる魔導士、といったところか。
口調と外見は全くと言っていい程合わない。
対する四葉は整った顔でも、口調も含めてどこか冷たかった。
「それで樹沙羅、何の用だ」
「君が見えたからね。走ってきた、それだけさ。君は何かここに用があったのかい?」
「いや、別に。ただ立ち寄っただけだ…どこに行く訳でもない」
「ま、まさか本当に家出なのか」
「違う。……本当に、とはどういう意味だ」
四葉は怪訝な顔をした。
瀧は驚いたように――とは言っても顔のつくりからして、何か大切な物がないことに気付いたような顔で、一歩引く。
「何なんだ」
「うん。咲那で素敵に大暴れした黒髪の男が…話を合わせるとどうやら君らしいという噂が少し流れていてね。それで家出中だとか痴話喧嘩中だとか、またいろいろいろ」
「前者は解るが何故痴話喧嘩」
「いや、それは今つい僕の口から出た言葉で…」
「成程。こうやって噂の尾ヒレとはついてくるものらしい」
実際、瀧の話――むしろ瀧自身に大した興味を持ってはいない。
大勢いたクラスメートのうちの1人、ただ熱心に話しかけてきたので名前は思い出した。それだけだった。
ほぼ同身長の瀧を見下ろす――ことはできないが、そんな勢いで四葉は瀧を睨めつける。
「そう、それで、まぁ、そういうこと。ごめん」
しどろもどろに瀧は弁解した。最後は呟きにしかならなかったが。
「それで、樹沙羅。用が済んだのなら行くが」
「うわぁお!!十数年の時を経て旧友と再会したというのに冷たいな、君は」
「何を…」
いつから友達に昇格したんだ、という疑問はなしにして、四葉は頭痛のする思いで、大敵がすぐ近くまで迫っているかのような表情になった瀧を見た。
「この服を見て、何か感想は?」
瀧は自分のローブを指さす。
「魔法学校教師のローブだ」
「その通り!僕は教師になった」
「そうかよかったなおめでとう」
四葉は口早に、何の感情も込めずに言う。
脳裏には、はっきり“疲れる”と浮かんでいた。
魔法で吹っ飛ばすのは容易いだろうが、何せ村の中。面倒は避けたい。
「で、四葉。ここで会ったが百年目とも言うし」
「言葉が不適切だ。それともお前は俺に恨みがあるのか?」
「……そんな訳で、学校の中を見ていこう。よし決まり」
どんな訳だ、と追求するのは無駄だろう。
だが断る理由はない。見たところ休校日らしいので、明日にでも再び訪れようと思っていたところだ。
「そうさせてもらえると、嬉しい」


そして例によって例の如く、職員室にいたもう1人の教師が知り合いであったことに、四葉は事の必然を呪った。
恐らく彼女はより“疲れる”。瀧以上に。
鳥の羽毛のような暖かみのある黄色の髪が、背まで流れている。
何かの花の色に似た、紫の瞳。そこにかかっている眼鏡は昔はなかったような気がする。
「四葉さん!?」
そう、驚きとも喜びともつかない声を上げた彼女に、ややげんなりして告げる。
「…ナズナ・ヴィッツリー」
それが彼女の名。学校生活の中で唯一と言っていい。覚えていた名だ。
「本物の四葉さんだ!嘘・・・何でですか、瀧先生!」
「運命の巡り合わせだよ。すごく都合のいい、ね」
(…都合のいい?)
言葉に引っかかりを覚えたが、四葉は何も言わなかった。
記憶の中を辿るように、職員室を見回す。学校という雰囲気そのものが懐かしい。
記憶はあっても、思い出らしい思い出がないのが事実だが。
「伽代」
呼ばれて四葉は我に返る。
「おめでとう!君は臨時教員に決まったよ」
「………は?」
たっぷり3秒は待って、答える。
「順を追って説明してほしいかい?」
「…その髪を失いたくないのなら、そうしろ」
「うん。実はこの奏香にはもう1人教師がいたんだけど、まぁ色々あってやめてしまったんだ。そこは長くなるからはしょるけど。で、僕とナズナでは人手が足りないから、君に臨時教員として働いてほしい。そういう訳だ」
笑顔で身勝手としか言いようのない要求を突きつける瀧。
「…生徒数は?」
「50人はいない。2,いや、3…じゅう…うん。本当は把握しておくべきだろうけど」
「そうだろうな」
「32人です、四葉さん。それと瀧先生」
ナズナは語尾を強めた。
「私が11人、瀧先生が10人。あとの1人が11人…だったんですけど」
「でもナズナ、顔を見て識別できる域には達したじゃないか」
「…お前それ以下の場合はどうかと思うが」
「要するに生徒じゃない子供を引っ張ってきたりとかかい?」
「やったのか」
「一ヶ月ぐらいまではねぇ…僕も若かった」
人手が足りないのは単に瀧が原因なのではないかと頭をよぎる。
四葉は溜息をつく。
そう答えることに大した意味はない。同級生のよしみだとか、そういった類でもない。
何となく。
「――――解った」
それも悪くないと、ただ思う。


宿の代わりに職員寮の一室があてがわれたが、それはなかなか快適だった。


始業鐘が鳴り響く。
先日までの他クラスとの合同授業が唐突に終わった。要するに新しい教師が来たのだ。
さる有名な御仁だという噂がまことしやかに囁かれている。
乾いた音を立ててドアが開き、あまりにも有名すぎるその人物を認めた瞬間、生徒たちの周囲の空気が凍りついた。
前髪だけ長い黒髪、長身。黒に銀糸のローブがやけに似合っていて、それを引き立てる。
魔法学校の総本山、鳳梭の学校を首席で入学、卒業。父は鳳梭を治める伽代駿模。
只今家出中という噂の――
「伽代四葉だ。このクラスの臨時教員として働くことになった」
彼―四葉はおののく生徒たちの前を通り過ぎ、教卓に出席簿を置いて言った。
かたん、という軽い音に、何故か生徒たちは体を震わせる。
「出席をとる」
四葉は明瞭な声で11人の名を呼んだ。
そのうち9人の声は引きつったり裏返ったりしていた。出席簿が閉じられる。
「…何か質問は」
教室を見回す。
窓側一番後ろの席に座っている少年が申し訳なさそうに手をあげていた。
「あの、伽代先生は、その、鳳梭の…?」
「そうだ。…あぁ、それと言い忘れたが、苗字で呼ばれるのはあまり好きではないので、名前のほうで呼んでほしい」
「っ、ごめんなさい!」
少年は目に涙をためかけた。
「気にするな。他には?」
誰も手をあげない。
本来ならば“先生は何歳ですか?”や“彼女はいますか?”の類の質問が飛ぶところだ。
生徒たちも聞きたいのはやまやまなのだが、その勇気のある者はいなかった。
「では、授業を始める」
四葉はおもむろにチョークをとった。


鳳梭の伽代四葉が教員として来たことなど、その日の昼には他の21人の生徒はとうに知っていた。
授業の内容を聞かれた四葉クラスの生徒は、口を揃えて言ったという。
「とても充実していたよ。自分の未熟さがよく解った。うん、ものすごく」
――と。


「やぁ伽代、初日はどうだった?」
瀧は図書室に入ってきた。四葉は読みかけの本を閉じる。
「…まぁ、やりやすかった」
「そうか。いい生徒たちだろう」
「ああ…それよりもやはり言い忘れていたが、名前のほうで呼んでくれないか?苗字はあまり…」
君はお父さんと色々あるみたいだしね。うん、解った。これからは四葉と呼ぶよ。ただし条件は君も僕を名前で呼ぶこと。瀧もしくは“たー”や“たっきぃ”とかね。… 君が三番目ので呼んだら、僕は逃げるかもしれないけど」
「瀧、でいいんだな」
「むぅ、つれないなあ」
窓からは西日がさしていた。ゆったりとした時間はやはり慣れないと四葉は思う。
「…そうだ、瀧。ここに異大陸に纏わる書物はないか?」
「異大陸?…いや、見た記憶はないけど、どうかしたのかい?」
「大した意味はない。つい最近異国の者に会って、少し…」
言いかけたとき、図書室の扉が開いた。
「あ、瀧先生、四葉先生、こんにちは!」
栗色の髪に天のような青い瞳の少女は、笑って頭を下げる。
毛先のきれいに切りそろえられた髪も、ぱっちりした目も、何とも可愛らしい少女だ。
「あの、瀧先生、今お忙しいですか?」
「いや。何か用かい?」
「えぇと、炎系攻撃魔法を応用させていこうと思ったんですけど、どんな本がいいのかなって」
「ああ、そうか。手伝うよ」
瀧は少女と一緒に図書室の奥へ歩いていった。
楽しそうな話し声が聞こえるが、意味のないものとして、四葉はまた本を開く。
古代の魔導士が使用していたとされる、一般に“魔術文字”と呼ばれるもので書かれている。
魔術を学んでいくうえで、これが全く読めないというのなら話にならない――
というのが、四葉の考えだった。
頁をめくったところで、瀧が戻ってくる。
四葉は読むのをやめたらしく、本を机におく。少女が本を持って出ていくのが目の端に映った。
「紗俚架 梨真」
「……?」
「彼女の名前だよ。君は彼女に少しだけ興味を持ったと思うから。ちなみに11歳」
「…魔力が高い」
「うん。生徒たちの中では一番。ひょっとしたら僕やナズナよりも。君には及ばないけど。でもとにかく僕の可愛い生徒さ。たまに風系魔法で悪戯されることがあるけどね」
「風?」
「顔に髪が三回巻かさったときは、ちょっとどうしようかと思った」
「可愛い生徒だな、確かに」
またドアが開く。入ってきたのはナズナだった。
「あ、いたいた。話があって職員室で待ってたのに2人とも戻ってこないから探しちゃったじゃないですか」
ナズナは椅子をとり、四葉と瀧に向かい合うように座った。
「で、ナズナ、話って何だい?」
「それなんですけど、明日3クラス合同授業をやりませんか?むしろレクリエーションっぽいの」
笑顔で彼女は提案する。
「うちのクラスの生徒が“四葉先生の授業受けたい”とか“魔法見たい”って言うんですよ。瀧先生のところはどうでした?」
「同じさ。四葉の授業は好評みたいだね。…3クラス合同、いいかもしれない。四葉、君は?」
「構わないが」
さして面倒だとも思わなかったので、四葉はそう答えた。
「じゃあ、僕も何をするか考えないとね。…破壊用の的は多い方がいいかな?」
「そうですねー、派手にやりましょうよ。四葉さんが何するのかすっごく楽しみです!四葉さんって昔からテストの成績ずば抜けてましたからね。…壊す的を原子レベルに 分解しちゃったり」
「どうでもいいがナズナ、2つ後輩のお前が何故知っている?」
「…けっこう有名でしたよ?」
四葉は肩をすくめる。
知らないところで自分の話が出ていたことに対して、ではない。
そんな過去に対してどうこう言っても仕方のないことだ。
生徒たち以上にこの教師2人が合同授業を心待ちにしているようなのは、決して間違いではないと思われた。


そして、翌日。
見事に32名と3人が青空の下、校庭に集まった。
鳳梭の魔法学校で四葉がこういった経験をしたことはない。あっても記憶に残っていないだけかもしれないが。
「えー、みなさんおはようございます。今日は良い天気で何より」
瀧は遠足の引率係のようなことを言った。生徒たちは不思議に思った様子もなく返事する。
「今日は3クラス合同授業という名目だけど、まぁ四葉先生の歓迎も兼ねてレクリエーション気分で楽しもう!以上」
「瀧先生…そんなおおっぴらに…」
ナズナは呆れ顔をした。
そんなことにも関わらず、生徒たちからは“たっきぃ最高!”などと声がとぶ。
奏香の魔法学校には校長、教頭といった役職は存在しない。
鳳梭に始まる魔法学校の系列には属するが、その働きは自治体のものに近い。
よって、生徒はこの奏香と周辺の少し離れた村からの子供に限られる。
教育方針など、鳳梭と連絡をとっているのは瀧。よって実質上、校長の働きをしているのは瀧ということになる。
「さぁ、最初は僕だ。あぁそうだ、忘れていたけどこのレクリエーションのサブタイトルは『勃発☆隠し芸大会!!』だからね。攻撃魔法やなんかはもう見慣れてるだろうから、 僕が今日見せるのは“招喚術”だ」
生徒たちの間でざわめきが起こる。
「はい、静かに。前に授業で話したね。魔術には様々な系統がある。“招喚術”も、もちろんその中の一つ。意識を集中させることにより魔力が何らかの現象を起こす“魔法” とは違って、“招喚術”は呪文を唱えることによって自分がいる場所とこの世界のどこか、もしくは他の世界―異次元とでも言うのかな?とにかくその二つをつなぐことで可能になる。そしてそのつないだ反対側にいるものを呼び出すんだけど、これをむやみに試してはいけない――この理由、解る人?」
顔をしかめる者、大袈裟に頭を抱える者、必死に目を合わせまいとする者。
その中で1人だけが元気よく手をあげた。
「はい、梨真。答えてごらん」
「はい!『空間をつなげることはおおよそ誰にでもできるが、呼び出された者は、術者の力量が低いと従わずに襲ってくることがある』からです」
栗色の髪の少女―梨真は得意げに答える。
「正解だ。では、最も危険な“招喚術”は何だと思う?梨真」
「えぇと…『悪魔招喚』ですか?」
「その通り!よく勉強してるね、梨真。この世界ではない場所にいる、人を襲ったりする恐ろしい魔物のことを“悪魔”と、そう呼ぶんだったね」
周囲から拍手が送られ、照れ笑いをする梨真。
「それじゃあそろそろ始めようか。僕がこれから呼び出すのは異世界の生命体だ。とは言っても全く無害だから大丈夫」
瀧は10m程離れると、生徒たちに向きなおった。生徒たちは話をやめる。
瀧は右手を天に向けて垂直に上げ、よく響く声で言った。
「――聞け、次元の扉を隔てし異形の者よ」
その響きからは、先程までのおどけた口調の名残すら感じられない。
「隣にして交わらぬ場所、不侵なる世界――」
瀧の頭上の空だけが、暗く紫がかる。
生徒たちは皆一斉に寒気を感じた。
「――――開け」
その時四葉は、とにかく何かが嫌だと感じた。
何が?そんなことは四葉自身が解らない。
一歩引いた四葉の前、すなわち生徒たちの上に影がおちた。
「きゃぁ!?」
「うわ!?」
「ふぎゅっ!?」
大混乱に陥った生徒たちから思い思いの悲鳴があがる。
だが誰1人として動かない――いや、動けない。
(…これは、嫌だ)
四葉ですら、口の端に引きつり笑いを浮かべた。
「瀧先生、何てことするんですか!確かにすごいですけど生徒たちが…」
「いや、大丈夫だよナズナ…こんなに大きいのは初めて呼び出したけど」
ちょうど3人のすぐ前で三角形の赤い物体が脈打っている。
「うぅ、動いてるぅ…」
「ねとねと…」
生徒たちの嘆きの呟きが聞こえた。
生徒32人をすっぽり覆った巨大アメーバは、ただ意味もなく蠢いている。
「帰れ、異形の者よ」
瀧の声と同時にそれは光に包まれて消えた。
「今のは異世界のアメーバ。僕が最初に呼び出したものだ。一番短い呪文だよ。もっと長い呪文で格好よくて強そうなの、とかはいるけど、やっぱり危ないし。可愛い生徒たちを危険に晒す訳にもいかないしね。はい、今のに対して質問は?」
黒髪の少年が手を上げて、言う。
「先生、まだ何かねとねとしてるんですけど」
「うん。まぁアメーバだし。あぁ、しかもあのアメーバ食べられるって本に書いてあったよ。不思議だね」
今度は灰色の髪の少年が手をあげた。
「先生、一回戻ってお風呂に入ってきていいですか?」
「いや、少し待っているといいよ。多分慣れるから」
最後に恨めしそうに言ったのは、梨真。
「瀧先生……ナズナ先生は何してるんですか?」
全員の視線がナズナへと注がれた。
びりびりびり…その音はそうとしか形容できない。
ナズナは四葉の横で、一心不乱に分厚い本を破っていた。
生徒たちは気付いていないのだろう。それが普通の本ではないことを。
「ナズナ、君は『聖書』を使うのかい?」
「はい、そうです。皆さんそのままで聞いて下さいねー。次に私が見せるのは“招喚術”と同じ“呪文魔術”の一つ、“聖書魔術”です。では、『聖書』を説明できる人ー?」
数ページ破った『聖書』を閉じ、立ち上がる。
一様にしかめ面をする生徒たちを見、ナズナは言った。
「ここはまだ授業ではやっていないところです。という訳で、四葉先生解答どうぞ!」
「…古代の魔術師が魔術文字で書いた本で、それ自体が魔力を持っているものをさす」
唐突に話を振られた四葉だったが、戸惑うことなく答える。
「そうです。要は魔導士にとっての『聖書』なんですね。“聖書魔術”の難しさはそこにあります。まぁ『聖書』の数も少ないので皆さんが実際に試すことはないと思いますが…それでは、始めます」
ナズナは破った『聖書』を空中へ放った。
薄いその紙は、風にそよぐことも、重力に従うこともせずに、静止する。
「―――――――――」
ナズナは何か言った。それは正確な魔術文字の発音だった。
「四葉、見るのは初めてかい?」
「…あぁ。少し勿体ない気がするが」
「僕が思うに、最も効果的かつ古代の魔導士からすると不本意な用法じゃないかと」
「同感だ」
そして、紙から雨が降った。
突如湧き出た雨は油断していた生徒たちを直撃して“ねとねと”を洗い流し、頭上にあることに気付かなかった四葉と瀧をも水浸しにした。
「紙から雨が降るなんて不思議でしょうー?実はこれ、魔力のあるなしに関わらず使えるんですよ。本の魔力ですから。今呼んだのは“水の章”です」
「ナズナ、すばらしいけど僕たちまで巻き込むのはどうかと思うよ?」
「はい次、四葉先生どうぞー!」
瀧の抗議は笑顔で無視される。
ローブを絞っていた四葉は髪から水を滴らせて顔をあげた。
気怠げに手の平を上に向ける。そこに光球がうまれた。
ただしそれは一般に知られている白色ではなく、橙色をしている。そしてそれは熱かった。
「太陽」
四葉は言った。生徒たちは静まりかえる。
「見て解ると思うが、これは“光球”の応用だ。炎の力を加えた」
四葉が“太陽”と呼んだそれは、ふわりと空中へ舞い上がった。
輝きが増し、辺りがじりじり照らされる。さしずめそれは真夏の――確かに、太陽。
「先生、質問していいですか?」
言ったのは梨真だった。四葉は頷く。
「それ、先生が造ったということですよね。一体、どうやるんですか?」
「言った通りだ。応用―組み合わせ。大切なことは様々な魔導書を読んで知識を身につけることだ。自然とどうすればいいか解ってくる」
「――はい」
梨真は、濡れた髪も服も乾きかけていることに気付いた。
その微妙な温度の調節がどれほど難しいか――簡単にも思えるそれが、力量を如実に表している。
「学校で基礎は教えていくが、それを深めて発展させるのは自分自身に他ならない、と俺は思う。自ら学び、行き詰まったときには教師に尋ねる。そのために教師がいる」
四葉クラスの生徒たちは何故か大袈裟に同意した。
「四葉、まさかこれで終わりかい?」
瀧は、まるで最愛の人を失ったかのような表情で言う。
「不満か?」
「いや、そういう訳じゃないよ。その“太陽”だって素晴らしい。でもほら、もっと派手なのとか…ねぇ。せっかく的も準備したのに」
的、というのは木からぶら下がっていたり地面にぽつりと置かれていたりする板のことだろう。
「それは、わざわざどうも」
「ほら、せっかくだし。鳳梭の魔法学校首席の実力うおあ!?」
悲鳴を残して、瀧は消えた。呆気にとられるナズナと生徒たち。
「あ、あの、四葉先生…?」
ナズナは恐る恐る尋ねた。
「炎と氷ではどちらがいい?」
「はい?じゃあ氷で…じゃなくてですね」
「氷か。解った」
そしてナズナも短い悲鳴とともに消える。
四葉は生徒たちの方へ顔を向けた。
全員蒼白な顔で後ずさる生徒たち。
「…どうした?」
「え、あの、先生、その」
「瀧先生とナズナ先生が」
「いなくなった気がするんですけど」
「あぁ、上だ。今送ってやる…万が一にも巻き込む訳にはいかないからな」
「上、ってせんせ」
そこから先は2人同様悲鳴に変わった。
地面から出現した木の蔓が生徒たちを絡め取っていく。
「あの、先生!?」
誰か1人の大声を最後に、32人の生徒たちは1人残らず見えなくなった。


天空高く伸びた蔓が、太陽の真下で光って見えた。
「やぁナズナ、元気かい?」
「瀧先生…何言ってるんですか」
風が吹く。鳥が真横を飛んでいく。
「うーん、学校の屋根が近いね」
「近いですけどね…」
「ナズナ、僕は今ふと思ったんだけど」
「…はい?」
「咲那で素敵に大暴れした男って、教師全員木の蔓でフェンスに結びつけたんじゃなかったかなー、なんて」
「気のせいです」
「そうかな」
「気のせいです。かなり気のせいです」
ナズナは断言した。
 

目を閉じる。
範囲は校庭。以上でも以下でもない。その広さを頭に思い描く。
自分の周囲1mを除いた円形。
風の音が止まり、空気の収束してくる音が聞こえる。
羽織ったローブが少し浮かび上がったとき、四葉は直立姿勢のまま低く呟いた。
「凍て付く大地、聳える氷柱」


その日の日誌には、3クラスともほぼ同等のことが書かれていた。
それにしても日直の生徒は楽だっただろう。
『今日、グランドが凍りました』
それ以外の何を書くかなど思いつく者はいない。
他の生徒も、そして教師も、それに不平を言うはずがない。
その日の出来事は、そうとしか形容できなかった。


臨時教員が奏香魔法学校に就任して3日目の放課後。
職員室に彼の姿はなかった。
「あぁ、すごかった」
「うわ、瀧先生、髪めちゃくちゃですよ」
溜息をつきながら入ってきた瀧は、机に向かって髪を整え始める。
「何してたんですか?」
「いや、廊下を通ろうとしていただけだよ。四葉の周りに生徒が集まっていてね。今回ので四葉の人気は下がるどころか急上昇したらしい」
「…でも、何で髪がそんなに?」
「まぁ…梨真の可愛い悪戯さ」
「またですか」
思わずナズナは笑みをこぼした。
たちの悪いパーマ状にちりちりのウェーブのかかった長髪を櫛でとかしながら、瀧は溜息をつく。
「やっぱり髪は長すぎると邪魔だねぇ」
「切ればいいじゃないですか」
「…そうできない理由があるんだよ」
「理由?」
「うん、実は僕…」
そのとき勢いよく扉を開けたのは四葉だった。
彼は無言で自分の椅子に座り、うなだれる。
「どうしたんだい?四葉」
「疲れた」
「人気者は辛いねぇ」
「…そういう問題か」
四葉は半眼で、気怠げに顔を上げた。
生徒たちからの質問攻め。その数おおよそ125。
無視して通る訳にもいかず、律儀に解答した四葉は当然だが疲れていた。
「やっぱり君の昨日の魔法に関する質問が殺到しただろう?」
「全質問数の約半数」
「そりゃあ、あれだけすごいの見せられちゃね。で、あとは?」
「その他諸々、私事等」
答えるのも面倒らしい。四葉はまた下を向いた。
「瀧先生」
「ん?何だい、ナズナ」
「お話中悪いんですけど、髪を切らない理由って…?」
「あぁ。僕は咲那のダラム=デス=デービル氏に憧れていてね」
「は?」
四葉とナズナの声は同時に発せられた。
「それで彼のような髪型にしようと思って伸ばしているものだから。そのうちウェーブもかけようかと」
「瀧」
「何だい?四葉」
「悪いことは言わない。髪は伸ばすだけにしておけ」
「え?いや、でも…」
またしても、扉が開く。
「あ、四葉先生、こんなところに!」
「どうしても先生に聞きたいことがあるんです!」
数人の生徒にせかされ、四葉はしぶしぶ立ち上がった。
「ま、頑張れ四葉」
「…ああ」
生徒たちにローブの裾を引かれどこかへ連行されていく四葉は、少しだけ笑っていた。
声と足音が聞こえなくなってから瀧は言った。
「驚いたね」
「…?」
「僕は学生時代四葉とずっと同じクラスだったけど…彼が笑ったのは初めて見たよ」
「四葉さん無愛想ですしね。…でも、私は見たことがありますよ。こっそり後をつけて帰ったときなんですけど」
「え?」
つっこみどころがあった気がするが、とりあえず抑える。
訝しげな瀧の顔を気にもとめず、ナズナは続ける。
「家の前で待ってた、嬉しそうに走ってくる妹さんに笑顔で『ただいま』って」
「…僕の想像力ではちょっと無理な域に達しているんだけど」
「きっと人を選ぶんでしょうねー。もしくは子供好きとか」
「後者はよく解らないけど…そうかもしれないね」
瀧は、四葉が出ていったまま開いた扉を閉めた。
笑いながら話していたはずのナズナが、すこし真面目な表情になっていることにそこで気付く。
「ナズナ?どうかしたのかい」
「…瀧先生、知ってました?」
「何をだい?」
「私が……いえ。何でもないです」
顔を赤らめてうつむいたナズナを見、瀧は呟いた。
「君が学生時代、四葉を好きだったことなら明らかに知ってるけど」
図星だったらしい。さらにナズナの顔は赤くなった。