晴れ渡る空の下で

「俺さ、兄貴には凄く感謝してるんだ」
年若い青年がどこか照れくさそうに言葉を紡いだ。
元々は黒かったであろうやや長めの髪は、人工的に脱色されて金色になっている。
胸元の空いたシャツからは日に焼けていない肌がのぞき、細身の体つきであることが見て取れる。
彼は車のドアにもたれて、シャツの襟元を掴むと、暑そうにばたばた風を起こした。
「何だい、改まって」
かがんでいた体勢から身体を起こした男が答える。
彼の黒髪は標準的な長さで、地味だが穏やかな顔つきが印象深い。
「兄貴さ、ただ近所に住んでたってだけで、昔からいつも俺のこと助けてくれるんだよな」
「まあ、長い付き合いだからねぇ」
ふふ、と微笑む男の優しい表情に、青年の口元も笑う。
「いちいちしゃしゃり出てきてうぜぇって思ったことは確かにあるんだけどさ……ほら、俺が高校時代に煙草吸った時とか」
「煙草はあれっきりにしたんだよね、そういえば」
「ああ。あそこで煙草なんて二度とやらないって思えたのは兄貴のおかげなんだ」
青年は少し遠い目をして、思い出すように呟く。
「『そんな軽い煙草なんて煙草のうちに入らないからどうせ吸うならこっちだよ』とかって兄貴が火のついたショートホープを俺の口に突っ込んで、反射的に大きく吸い込んだあの瞬間……あ、何か思い出したら泣きそうになるんだけど」
「君、思いっきりむせかえってたもんね」
「……ま、実際煙草なんて見た目格好良いけど健康に悪いだけだし、やめられて良かったと思ってるんだ、今は」
男は大きく頷いた。
じりじりと、夏の日射しが黒い車に向かって照りつけてくる。
青年は車の戸を開け、助手席の前に置いてあったペットボトルのスポーツドリンクを取り出し、飲んだ。
半端に温くなったお世辞にも美味しいとは言えないそれを開いた窓からまた助手席に投げ入れる。
「……今回も、さ」
溜め息混じりに話しだした青年に、男は目を向ける。
「兄貴が居てくれなかったら彼女にフラれてどん底のまま、まだ家にこもってたと思う」
「……」
「ったく、あり得ねぇよな。『あなたみたいな貧弱な人は嫌』って……まさかあいつの趣味が山登りだなんて思わなかったし知らなかったし」
青年は深く嘆息する。
「大学に入ってすぐに一目惚れ、必死にアプローチして付き合いだした彼女との最初のデートが登山……運が悪かったねぇ」
「音楽にはノれるけど山なんて登れねえよ。俺インドア派だし」
「知ってるよ」
男の優しい声色に、青年は俯いた。
「本当……好きだったんだ、けどな」
「趣味が登山でも?」
「俺が今まで会った中で一番可愛かったんだ……」
「ああ、昔から面食いだったもんね、君は」
「兄貴が迎えに来てくれなかったら、俺今日の夜くらいに彼女の写真火種に花火してたかもしれない」
「そこで黒魔術とかに走らないあたり君らしいね」
青年が黙り込んで、沈黙が流れた。
風も無い真夏日。
整備されていない路面には、丁度というかは運悪く、日陰すら出来ていない。
無意識に二人は流れ出てくる汗を手で拭ったが、それに大した意味は無い。
「兄貴、本当……ありがとう。夏は山より海、って俺もそう思う」
「最初は登山の特訓をしてあげようと思ったんだけどね。今の君は山なんて見たくもないだろうし、それなら気分転換がいいんじゃないかと考えてね」
「うん」
青年は微笑んで蒼を見た。
一面の蒼の中、流れてゆく白。
そのまま飲み込まれてしまいそうな、汚れ無いスカイブルー。
……というよりかは、空。
「でもさ、兄貴」
「ん?」
青年の瞳は遙か彼方、空の果てでも見るように細められた。
「ここ、山ん中だよな?」
「うん。ごめん」
男は空気が抜けたように凹んだタイヤをぽんと叩き、やれやれといった苦笑いを浮かべる。
「思いっきりパンクしちゃったみたいだよ。ついでにスペアなんて積んでないし、おまけにガソリンも切れそうだねぇ……あと十キロ、山を抜けたらそこは大海原なんだけど」
蝉が煩い鳴き声をあげる。
炎天下。
気温は温度計が無いので測定不可。
晴れ渡る空の下、夏に相応しい爽やかな笑みを浮かべた男と、口元を引きつらせた不自然な笑いの青年が、車を挟んで立っていた。
 

End
2005.08.02